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                                                                                                                              2022年5月8日



『「主の御心のままに」と決断し、
全能主にお委ねしていく道

マルコの福音書14:32~42

(起)マルコ14章32節から記されている、ゲッセマネの園でのイエス様の祈りの箇所から、「私たちも

勇気を持って、
『主の御心のままになさって下さい』と決断し、あらゆることにおいて全能主に

信頼し、お委ねして行く道を歩み出すこと
」を学んで行きたいと思います。


(承)
さて、イエス様は、
「肉の血筋によればダビデの子孫から生まれ、聖霊によれば、全能主の御子

として宣告された方」
として、ローマ書に記されています。すなわち、地上に来られたイエス様は、

全能主の御子で
あられたにも関わらず、肉を担って、肉の血筋の中で生まれた方でありました。

ですから、十字架にかかられる
前にゲッセマネの園で祈られたイエス様は、
肉を担われていた御方

として、ここで初めて、自分の肉の弱さに襲われたのです。
(イエス様は、全能主の御子の立場と、

肉を担われた人の子としての二面性を持っておら
れました。)
その肉の弱さとは、いわゆる人の肉の

弱さです。
御子であるイエス様は、これから受ける拷問がどんなに(つら)いものであるかを、(あらかじ)

全てを知っておられましたので、
その拷問に対する恐怖心を改めて覚え、
「もしできることなら、この

時をわたしから過ぎ去らせて下さい」
と、全能主に祈られたのです。そして、祈り終わって戻って

来ると、弟子たちが眠っていましたので、
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。

霊は燃えていても、肉体は弱いのです
と言われました。しかし、弟子たちにとっては、自分たちが

直接に
苦難を受ける訳ではありませんので、「目を覚まして祈っていなさい」という意味が分かりません

でした。確かに
この言葉はペテロたちに向かって語られていた言葉ではあったのですが、実は、イエス

様は、
自分自身に対して語っていた言葉であったのです。それは、イエス様の心の中には「全能主の

御心を行いたい」という
思いが、霊の本心として当然の如くありましたが、「霊は燃えていても、肉体は

弱いのです」と言われた言葉通り
、この時のイエス様は十字架に付けられる事の恐怖を激しく抱いて

おられ、(おび)、苦しみ、もだえ始めておられたのです。
なぜなら、肉体は弱く、苦しみに耐え

られるかどうかも分からなかったからです。
ですから、「どうかこの杯を取り除けて下さい」という

言葉は、イエス様の切実な叫びであり、その苦しみと葛藤の中で、イエス
様は「わたしの魂は、絶望の

あまり死ぬほどです」と言われたのです。
しかし、最終的に、「わたしの思いではなく、あなたの御心

のままになさって下さい」
と言われ、「父にお委ねする」という決断をして立ち上がられました


(転)実は、この決断は、私たちも同じようにすべきものです。どういうことかと申しますと、私たちの

心の中には、
「イエス様によって救われた以上、この救いの中で生涯を全うしたい」という願いが当然

あります。これは、
何物にも()(がた)い私たちの本心であることは間違いありません。言葉を

替えると、これが霊の本心です。それは
全能主の存在の事実イエス様のアオリストの救い、また御霊

様の語りかけ
によって、はっきりと確信するものです。しかしながら、そこへ魔物が私たちの肉に語り

かけて来るのです。即ち、いくら霊の本心に立っていたとしても、肉を切り捨てる訳にはいきません

ので、私たちは肉の思いに捕ら
われ、霊の本心が(おお)(つぶ)されそうになるのです。例えば、
私たち

が困難にぶち当たった時、
私たちの内に潜んでいる魔物が働き出します。そして、魔物は、「いくら、

純な気持ちを通そうとしたって、いざ自分の肉体を痛めつけられたなら、()を上げるに決まって

いる」
と、(おびや)かしてきます。すると、
私たちの心は弱くなって、「自分は耐えられないかもしれ

ない」という
思いや、
「そんな辛い目には遭いたくない」という思いが出て来て、負けそうになります。

そのような中で、自分は
どっちにつくのかを決めなければなりません。即ち、「霊の本心に立つか、肉の

本心に立つか」を決めなければならないのです。それは、他人が決めてくれるものではなく、
自分が決める

ことです。
しかし、問題はその決め方です。律法的に、自分の決断力に頼って決めて行くのではなく、

イエス様がされたように、「主の御心の
ままになさって下さい」と、「全能主に(あず)けます」と

定めた決断です。
この決断を、今勇気を持ってしなければ、私たちは死ぬまで自分の弱い肉に(おびや)

され、敗北し続けて行く人生を味わうことになります。
自分の肉は弱く、自分の努力、自分の判断は

当てになりません。
ですから、いつまでも自分自身の肉の弱さに留まっていては、信じた者としての

生き方を全うすることはできません。
ならば、自分自身を見切って、主に信頼し、主にお任せして行く

道しかありません。
イエス様は、勇気を持ってこの決断をして、立ち上がられました。私たちも、

「主の御心のままになさって下さい」と、全能主に預けて立ち上がり、この道に歩み出すのです。


(結)
私たちは、「肉に立つか、霊に立つか」という葛藤の中に、日々置かれています。ですから、

そこで
「全能主の御心のままに成さって下さい」という決断を、勇気を持ってするのです。
その

決断は、弱い自分に
頼ってするのではありません。この決断は、全能主に預ける決断です。決断と

いうと、全て自分に降り掛かって
来るように思いがちです。しかし、自分に出来ることなら、こんなに

迷いません。
私たちは、基本的に自分の
肉の努力で救って頂いたものではありません。ただ、肉の弱さを

知って、キリストを信じたのです。ならば信じた後も、キリストに依り頼んで行くのは当然のことではない

でしょうか。キリストに()(たの)むとは、「私の思いではなく、全能主の御心のままに成さって

下さい」と、全てを預けることです。
それは、自分にとって嫌だと思うことでさえ、「全能主にお任せ

して行く」と決めることです。即ち、どんなに辛いことでも「清濁(せいだく)(あわ)()んで行く」という

ことですそれが信仰の醍醐味であり、信じる者に働く全能の力が、どんなに素晴らしいものであるかを

知るチャンスです
どうか、勇気を持って、「主の御心のままに成さって下さい」と決断し、あらゆる

ことにおいて全能主に信頼し、お委ねして行く道を歩み出そうではありませんか。

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