2022年3月13日
『自分自身を見切って、一心にする』
ヤコブの手紙4:1~10
(起)ヤコブ書4章8節の御言葉から、全能主の前に完全に罪人である事実を認め、「主に信頼し、
主が成し遂げて下さる」ことを100%信じ、信頼して行く生き方を一心に始め出すことを学んで
行きたいと思います。
(承)さて、ヤコブ4:8を見ますと、「二心の者どもよ、心を純粋にせよ」とありますが、
これは私たちの信仰の大切な要素です。どういうことかと申しますと、私たちの教会は、「あなたの道
を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という御言葉に大いに啓発されてきた教会です。
そして、その具体的な生き方は、「ジョージ・ミュラーのような生き方をする事だ」と学んできま
した。それは、「自分であれをやる、これをやる」といって、道を切り開いて行くのではなく、目に
見えない全能主の御心を確かめながら、最後まで全能主に委ねて、事を成し遂げて貰う生き方です。
そこには、人間的な思惑は一切入れない、純粋な信仰のあり方です。しかし、いざ私たちも同じような生き方
を始めようとすると、「そんな生き方が本当に出来るだろうか?」と不安になり、「自分もミュラーさん
のような生き方をしたい」と思いつつも、建前だけになってしまうのです。それは、目に見えない方
を頼って行うのは、非常に難しく忍耐がいることだからです。また、それを頭で分かっていても、本気で
始め出すには、勇気がいるので、私たちは「信じます」と言いながら、いつも安易な目に見えるところ
に心が向かうからです。ですから、二心の中に在るのです。しかし、この二心を持ったままの状態で
は、本当に信じた事には成りません。ヤコブ書1:6~8には、「何一つ疑わないで、主を信じ仰ぐ心を
もって求め続けなさい。疑い続ける人は、風の吹くままに揺れ動く、海の荒波に似ています。そのよう
な人は、二心の者であって、そのすべての行動に安定を欠いた人です」とあるように、私たちは
「本気で信じる心を持って信じたのかどうか」を問われるのです。ならば、もう私たちは二心を止めて、
主を信じ信頼する一本に懸けなければなりません。ところが、生まれてこの方、私たちが経験して
きたのは、「一本に懸けてやって見て、それで良かった」という成功体験より、「一本に懸けてやって
みたけど、ダメだった」と失望落胆した経験の方が多いのです。それが自分自身のトラウマ(精神的
障害)となって、一つのものに懸けて行く勇気が持てないのです。ある伝道者が言いました。「信仰は
そんなに甘いものではないよ」と。「ジョージ・ミュラーの信仰はその賜物を頂いた人間にだけ出来る
のだよ」と言って、全能主の全能の力を、この世の常識で割引き、常識を越えて信じていく生き方を、
神がかりだと非難します。しかし、こんな不信仰な考えを持っていて、何を信じて主の証を立てて
行けば良いのでしょうか。それなら、聖書のどこを信じて、どこを諦めて行くのでしょうか?
今の時代は、純粋に信じていく者を馬鹿にし、不信仰が当たり前になって染みついており、臆病になって
いるのです。このように、心の中には、信じて行こうという建前はあっても、本音では、目に見える
確かなものだけに頼ろうとします。そして、「もしダメだったらどうしよう」という気持ちが先立ち、
私たちの心が傷つかないように、始めから信仰の挑戦を諦めているのです。だから、「ミュラーさん
のような生き方をする」と決めても、それは頭だけの決め事で、実際には決めた通りには行わないの
です。このように、多くの人は、自分に頼り、全能主にも頼ろうとする二心を当たり前のように持って
おり、不信仰から抜け出せないでいるのです。これが、今現在の私たちの状況なのです。
(転)では、この状況から抜け出すには、どうすれば良いのでしょうか?また、どうすれば、二心を
一心にする事が出来るのでしょうか? それは、不信仰という一方の「自分に頼る」という面が
完全に取り去られればいいのです。もし「自分に頼る気持ち」が完全に取り去られたら、後は、主に
頼って行く道しか残されません。すると自ずから、二心から抜け出し、主を信頼する一本道に向かって
行けるでしょう。その為には「自分は何をやっても出来ませんでした」という、罪人の現実を思い知ら
されて、「自分を信頼しても駄目だった」という、本音に立ち返ることです。即ち、生まれながらに罪人で
あるというその事実を、自分自身が認めてしまうことです。ヤコブ3:2に「私たちは皆、多くの過ちを
犯すものです」とあるように、私たちは罪人であるという事実に抗う(否定する)ことは出来ませんし、
そういう自分自身を変えることも出来ません。だから、この事実を私たちは思い知るべきです。
そして、心から認めるべきです。否、認めていいのです。ところが、「自分は何も出来ませんでした」と
認めてしまったら、「この世では生きて行けない」という強迫観念に駆られ、多くのクリスチャンは、
自分が罪人だと分かっていても、自分に頼り、少しでも「自分に出来ることを探し、出来るところが
ある」と思いたいのです。しかし、聖書は私たちに「義人はいない。一人もいない」とはっきり言って
いますので、「自分は完全にお手上げです。自分は全的堕落の罪人です。ですから、イエス様に
頼るしかありません」と、心底から、お手上げの自分を認めるべきです。逆に、私たちは全能主の前に、
「多少は良いところがあります」と言える人がいるでしょうか。それは、同じ人間と比べて言えば、
そう言える人もいるかも知れません。しかし、それは、全能主の前で自分の罪を見ていないからです。
全能主の前では、完全なお手上げの人間です。多くのクリスチャンは、自分が罪人だと頭では分かって
います。しかし、全能主の前でその弱さ、罪深さを考えているでしょうか?もし全能主が求めておら
れる基準で、自分に問いかけていけば、「完全にお手上げです。」しかし、「義人の基準」を、人間の
レベルに引き下げれば、なんとでも言えます。この事実を認めたら、自分に頼ろうとする心が消え
去って、一心に主に頼って行こうという方向に向かえるのではないでしょうか。ですから、私たちは、駄目な
自分の事実を正直に認めて、自分を見切った時、私たちの二心は消え去り、全能主に頼って行こうと
いう、一心になるのです。なぜなら、全能主の前で、罪人の自分の姿を見るからです。すると、
全能主はその一心を「純粋」と見て下さり、我を砕いたその心を見て、「その悔いた心を軽んじない」と
言われ、「わたしに信頼するなら、わたしが成し遂げる」と、全能主の方から手を差し伸べて恵みに預から
せて下さるのです。すると、二心の者が、今度は、「主に頼って行けばいいのだ」という確信
に変わって行き、私たちは、全能主だけに信頼し、ミュラーさんの生き方を本気で始め出す人になって
行くでしょう。
(結)ですから、まずは、自分は何も出来ない罪人だという事実を全能主の前に認めて、自分自身を
見切ることです。それが純であり、一心にすることです。ですから、この「二心の者どもよ、
心を純粋にせよ」とは、「聖く正しい心を持て」ということではありません。そうではなく、「純粋」
とは、「自分は罪人だ」という事実を正直に認め、主にだけ頼って行く生き方に変えて、一心に
なった状態のことを指すのです。どうか、私たちは二心ではなく一心でやって行きましょう。
まず、罪人である事実を認め、そして、全能主だけに信頼して行く、純な一心で始め出そうではあり
ませんか。
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