2022年2月27日
『新しく創造された者として生きて行く』
第Ⅱコリント5:17
(起) 第Ⅱコリント5:17の御言葉から、私たちは、「新しく創造された者」として、「あなたの
道をヤハウェに委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という生き方を始め出し、その喜びを
味わって行くことを学んで行きたいと思います。
(承)さて、まずは5章17節の御言葉を詳しく紐解いて行きたいと思います。「誰でもキリストに
あるなら、その人は新しく創造された者です」とありますが、「創造」とは、「全く何もないゼロの
状態から創る」という意味です。ですから、「この地上にオギャーと生まれ出た私たちが、徐々に
新しく造り替えられて行く」というのではなく、「全く別の新しい者として、ゼロから創られた」
という意味です。また、この「新しく創造された」という語句は名詞ですので、「『新しく創造さ
れた者』というレッテルが私たちの中に貼られた」ということです。そして、「古いものは過ぎ去りま
した」という部分は、アオリスト形で記されています。アオリスト形は、「現在の状況如何にかかわらず、
過去においてそうされた」という意味になります。だから、この部分は、「現在の私たちの状態に関係
なく、私たちの古いものは過ぎ去りました」ということを信じることです。ただし、アオリスト形で
あるが故に、「古いものは過ぎ去った」ということを今味わいたいと思っても、それは出来ません。
実際問題、私たちは心の中に魔物を抱え、罪を犯してしまう古い自分を持っているのも事実です。
ところが、最後の、「見よ、すべてが新しくなったのです」という部分は、完了形で記されています。
ということは、この御言葉の結論は、「私たちは、今現在、魔物を抱えている罪人ですが、その現在
の状態に関係なく、私たちの古い人は過ぎ去ったので、新しく創造された者として生きて行きなさい」
ということです。
(転)では、「新しく創造された者として生きて行く」とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、
「あなたの道をヤハウェに委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という御言葉の生き方をする
ことです。「あなたの道をヤハウェに委ねよ」ということは、自分で「あれをやる、これをやる」と考えて
道を切り開いて行くのではなく、「完全に全能主に任せ切って行く」ということです。だから、
例えば私たちが主のために何かしようとする時は、自分の能力でやろうと考えてはいけません。
どんな奉仕をする場合でも、「主よ、お助け下さい」と「主に信頼し、主が成し遂げて下さる」と
信じて行うのです。それを地(その御言葉通り、罪人のままで行うこと)で行った人が、ジョージ・
ミュラーさんです。彼は、御言葉通り、信仰を働かせて行った人です。そして、「新しく創造された者
として生きて行く」ということを味わった人です。この生き方は、フルタイムで主の働きをしている者も、
そうでないクリスチャンも、皆味わって行くものなのです。しかし、私たちはその生き方が正しいこと
が分かっていても、いざその中に歩み出そうとすると、不安が襲って来て、その通り始め出すことに臆病
になるのです。それは何故かと言いますと、先程も申し上げたように、私たちは肉を持っており、魔物
を抱えているからです。そして、その魔物の声を聞いてしまうと、「完全に主に任せ切って行くなんて、
自分には出来ない」と不安に陥って、古い自分に頼ってしまうからです。なぜなら、自分の方法で、手っ取り
早く結論を出したいからです。ですから、なかなかその信仰に飛び込むことが出来ず、怖じ気づいて
しまうのです。だから、どうしても主に信頼する生き方を始め出す壁を超えられません。しかし、
私たちは、聖書に書いてあることを信じ、イエス様を信じました。ならば、イエス様を信じたのですから、
今更になって、全能主や聖書のことばを信じれないとは言えないはずです。もし不信仰になるなら、
何を信じてクリスチャン生活を続けるのでしょうか?私たちは、聖書を信じてイエス様を信じたのです。
ならば、聖書に書いてある通り、「あなたの道をヤハウェに委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて
下さる」という生き方に懸けて行くべきではないでしょうか。確かに、その生き方を始めるには
勇気がいります。私たちは魔物を抱えた罪人ですから、すぐに不安や恐れを持ってしまう弱い人間
です。しかし、それでも「主に信頼し、主が成し遂げて下さる」と信じる方向に心を向けて行くのが、
クリスチャンの信仰の在り方です。その新しい生き方をして行くことにおいて、誰にも(悪魔にも)
遠慮する必要はありません。何故なら、アオリスト形によって救われた者ですから、「私たちの古い
人は過ぎ去り、私たちは新しく創造された者です」と、確信を持って宣言すれば良いのです。ですから、
「自分はそんなことを言えるような者ではない」と、肉の弱さを見て、尻込みする必要はありません。
全能主が、「そうなったのだ」と言って下さっている以上、私たちは自信を持って、「新しく創られた者」
というレッテルを胸に貼っていいのです。また、過去の自分、古い自分を見たとしても、イエス様に
頼って行く資格は無いと思ってはいけないのです。私たちは、弱い自分のままでも、信じていく方向
に向かうことを、全能主は「よし」と言って下さるのです。
(結)どうか、もう弱々しい自分の肉に脅かされて、決断を先延ばしにするのはやめましょう。
自分の弱さや、情けない部分が、時間と共に強力になったら、始め出せると思ってはいけません。
ある日、突然光を受けて、その信仰の中に飛び込むことが出来ると思うのは、悪魔の狡猾な騙しごと
です。信仰は、「新しく創造された」と言われる御言葉を信じて、始め出すことを自分が決めるのです。
そうして始め出した時に、今まで出来ないと思っていたことが、主から力を頂いて、主がして下さったと
喜べるようになるのです。罪人の自分に期待しても、自分を裏切るだけです。ならば、決して裏切る
ことをなさらない全能主に、とことん信頼して結果を味わって行こうではありませんか!
そうすれば、「主が成し遂げて下さいます。」どうか、ジョージ・ミュラーさんのように、新しく
創造された者として、「あなたの道をヤハウェに委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」
という生き方を始め出しましょう。そして、その喜びを味わって行こうではありませんか。 |
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