2022年2月13日
『全能主が満足して下さる仕え方』
第Ⅰテモテ6:11~16
(起)「主を信じ続ける戦いを立派に戦い抜いて、永遠の命を獲得しなさい。」という御言葉から、魔物を
利用した自分流のやり方ではなく、「どこまでも全能主の意向を汲んで、全能主が満足して下さる仕え方」
を学び、主を信じ続ける戦いを立派に戦い抜くことを全うしていきたいと思います。
(承)さて、11節を見ますと、「義と、慎みと、主を敬う心と、愛と、忍耐と、柔和とを追い求め
なさい」とあります。私たちは、このような箇所を読むと、「自分で努力して、心を変えて行けば、
こういう生き方が出来る」と誤解してしまいますが、それは間違っています。テモテ1:15に
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった』という言葉は、真実であり、
そのまま受け入れるに足るものです。私は、その『罪人の頭です』」とあるように、私たちは「キリ
ストの贖いによって救いを頂いた者」ですが、なお「罪人の頭である」という事実の中にあります。
しかし、その救いはあくまでもアオリスト形ですので、私たちの現在の状態が「罪人の頭」ということ
の如何に関わらず、救いを受けているのも事実です。しかし、「贖われ、清められて、正しい人間
に成った」というわけではありません。実際に、この身体が贖われるのは、イエス様がおいでになる時
ですから、患難時代の最後の時です。今現在ではありません。ということは、私たちはイエス様を
信じた今もなお魔物を抱えた罪人のままなのです。そんな罪人に対して、「義と、慎みと、主を敬う心と、
愛と、忍耐と、柔和とを追い求めなさい」と言われても、はっきり言って出来ませんし、罪人の私たちに
とって酷な話です。しかし、テモテへの手紙全体を読む時、「正しい良心を持って、立派に戦い抜き
なさい」と勧められているのも事実です。ということは、聖書にこのように書いてある以上、「自分
の努力と熱意で、全能主に受け入れられる働きをして行く」と考えるのは、短慮にして曲解した無理な
解釈であると言わざるを言えません。
(転)では、私たちは全能主の前にどのように歩み、どのように信仰を戦い抜いて行けば良いので
しょうか。それは、「自分の努力、自分の熱意ではなく、全能主の考え、全能主の意向を汲み取り、
御霊の助けを頂いて、全能主の御心を実現して行く」ことです。それは、結局「自分で頑張って、全能主の
御心を行え」と、言われているように思われますが、それは誤解です。なぜなら、先週も学んだよう
に、「私たちは皆、ペテロさんのように、大言壮語をしては、ふるいにかけられて落とされて来たもので
あり、私たちは本当は弱い人間で、自分で自分を信用できない罪人であった」ことを思い知らされて
います。それならば、「自分に頼って、自分の努力で何かしよう」とするのではなく、「どこまでも
全能主の考え方を聞いて、御霊の助けを頂いて、それを忠実に行う」という方向に変えて行くべき
です。それは、どこがどう違うのかと言いますと、実は、同じように見えて、違うのです。多くの
人は、自分に任せられた以上、自分で遣らなければならないと責任感を働かそうとします。そして
「任せられたことを自分流にアレンジして、自分に出来る方向でやろうとします。」そこが間違っている
のです。それは、自分の手に握ってしまうことであり、知らない内に、全能主の考え方から離れて
しまうからです。仕える者は、どこまでも、主人の考えに従う心を持つべきです。ですから、
「どこまでも全能主の意向を心に入れ、全能主の考えを汲んで、全能主が満足される方向で仕えて
いく」というのが、仕える者の心です。そこには、自分の満足は一つも入っていません。ただ、相手
の満足を願ってする奉仕です。これが肝心な「へりくだりの心」です。クリスチャンは、もう自分のために
生きて行くのではなく、どこまでも、主の意向、主の考えを実現するために生きて行くのです。
それが、奉仕をするということです。それを、もし自分流でやった場合「自分のやりがいを求めて、自分
の満足も入れ込んで、褒めて貰おうとする色気を含んだ遣り方」に変わってしまいます。すると、
相手の願っている所からずれが生じ、自分勝手な威張った感情を入れ込んだ結果を生むことになります。
それを出し始めたら、私たちはまた、ペテロのように、ふるいにかけられ、落とされて、恥をかくこと
になります。だから、もうそういう遣り方は、卒業すべきです。「どんなやり方でも結果さえ
出せば認めてもらえる」と思ったら大間違いです。自分の肉に頼り、自分の誇りを持ったままで魔物を
利用すれば、しっぺ返しが来ます。それでは、喜んでもらえません。そうではなく、徹底的に主人の
意向を心に受け留め、御霊の助けを受けて、「相手のために遣らせて貰う」という心に変えるの
です。この「ただ相手の利益を求めた奉仕こそ、主に受け入れられる仕え方です。」この仕え方は、
すべての人に言える心の秘訣です。どこまでも相手のために行い、自分の満足のためにしてはいけ
ないのです。この生き方をして行くことが、「主を信じ続ける戦いを立派に戦い抜きなさい」と教えて
いるパウロのメッセージであり、イエス様によって召されて、仕えていく者とされた人の生き方です。
(結)最後にもう一度、繰り返し言いますが、私たちには、「義と、慎みと、主を敬う心と、愛と、
忍耐と、柔和とを追い求めなさい」とありました。しかし、「自分で自分を信用できない、魔物を
抱えた『罪人の頭』である」ということを忘れてはいけません。それでも、これを追い求めて行く
ように勧められていますので、私たちは、イエス様にあって遣らせて頂くのです。自分に頼り、
自分で努力して結果を出すのではありません。どこまでもイエス様と全能主に依り頼み、全能主の
満足される生き方をして行く時に、知らない内に義と慎みの中に生きて行くようになるからです。
そこには、御霊の助けを頂いて「今まで出来ないと思っていたことも、出来た」という証しが生まれ
て来ます。どうか、この生き方が私たちの心に植え付けられて行きますように。魔物を利用した自分
流のやり方ではなく、どこまでも全能主の意向を汲んで、全能主が満足して下さる働きを全うし、
主を信じ続ける戦いを立派に戦い抜こうではありませんか。
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