2022年12月11日
『御霊による新しい生き方と、霊的な努力』
ピリピ人への手紙 3:1~18
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(起) ピリピ3章7~16節と、ロマ書7章6節の御言葉から「御霊による新しい生き方」を始め出し、
その中にあって、霊的な努力をし、「何とかして、死者の復活の状態に達したいのです」というパウロ
さんの心を学んで行きたいと思います。
(承)さて、ピリピ3章4~6節を見ていくと、パウロのプライドの高さを強烈に見せつけられます。
それは、「肉に依り頼むことなら、人に負けないほどあります。・・・律法の義については落ち度のない者
でした」とあるように、パウロはプライドと面子の塊で、「人一倍律法には熱心で、自分自身を
律してきた」と言っているのです。しかしながら、イエス様に出会った時、罪人である自分の真の姿を
知り「自分はなんという偽善者だ」と言い切りました。そして、「私にとって益であったすべてのものを、
キリストの故に糞土のように思うようになった」と告白しています。さらに「私はキリストの故に、
すべてを失いましたが、それらのものを、ゴミのように思っています」(3:7~8)と、断言しました。
なぜなら、次の9節で語っているように、義というものは、律法によって自分の努力で得るものではなく、
イエス様を通して全能主から与えられるものだと分かったからです。そして、「何とかして死者の復活の
状態に達したいのです。・・・そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからです」(3:
11~12)と。
実は、私たちもイエス様によって心が捕えられていなければ、魔物に騙され、途中で信仰を失ってしまう
かもしれない怖さを持っていた者です。だから、「何とかして最後までイエス様を信じる信仰を全うし、
死者の復活の状態に達したい。即ち、パラダイスに上げられ、その後に新しい天と新しい地へ導かれて
行きたい」と、パウロのように願う者です。そして、「後ろのものを忘れ、前のものに向かって懸命に
努力し、・・・上に召して下さる全能主の栄冠を得るために、ひたすら目標を目指して走っているのです」
(3:13~14)とパウロが言ったように、私たちも、後ろのものに引きずられ、過去の嫌な自分に
引き戻されて「自分のようなものはダメだ」という思いに填まりがちですが、キリストに頼って懸命に
前のものに向かって、ひたすら霊的に努力していくべきです。なぜなら、イエス様の救いは、アオリスト
ですので、現在の自分は罪人候であっても、「現在の状態の如何に関わらず、キリストが過去に
おいて贖いを為し終えて下さった」という救いですから、罪人であっても、キリストに頼って一生懸命、
復活に預かるために努力するのです。ですから、「後ろのものは忘れ、前のものに向かって懸命に努力し、
死者の復活の状態に達するため」に心を使っていけば良いということが分かります。もちろん、この努力は
律法の努力ではありません。自分自身の霊の気持ちを強くして、一生懸命励んで行こうとする「霊的な
努力」です。その中にあって、死ぬまでキリストを信じ続け、全能主から「よくここまで信じて来たな」と
声をかけて頂けたなら、それが栄冠を得るということです。私たちの残りの生涯は、ひたすら、ここに
目標を置いて走って行くのです。
(転)では、その生き方をするために、私たちは具体的に、どういう生き方をして行けば良いので
しょうか。それは、エペソ4章23~24節を見て行きますと、はっきり言われています。「あなた方の
思いの霊が新しくされて、・・・全能主に似せて創造された新しい人を着るべきことです」とあります。
「思いの霊が新しくされる」とは、考え方を新しくして行くという事です。即ち、自分自身に根拠を
置かず、「律法によっては義とされませんから、私にとってはイエス様に依り頼んで行く道しかありま
せん」という告白をはっきり表明することです。そして、その新しい人は、「自分の行いではなく、
キリスト・イエスによる贖いの故に、価なしに義とさる(ロマ3:24)」という恵みの下で、御霊による
新しい生き方を始めるのです。即ち、自分自身のビジョンとか、自分自身の熱意とか、自分自身の目標を
目当てに生きて行くのではなく、「ひたすら、御霊の導きによって判断して行く生き方」に、変えて行く
という事です。それは、その時々に自分が右に行くべきか、左に行くべきかを、すべて御霊に聞き、御霊の
導きにそのまま従って決断し、「主に委ね、主に信頼して行く」という生き方を始め出すということです。
「新しい人を着る」とは、そういう意味です。私たちは、その生き方の中で、全能主から頂いた目標を
目指して一心に走り、残りの生涯を全うするのです。
(結)こういうわけですから、まず一番大事な点は、私たちもパウロさんのように律法を捨てることです。
律法を捨てるとは、「自分は生まれながらの罪人である」という事実を認めることです。逆に、律法を
重んじるとは、自分は罪人ではないということを、自分で表明することになるのです。しかし、本来の
私たちは罪人ですから、「私には、元々律法を守っていく力がないし、自分には義がない」ことを、
ハッキリと悟り、全的堕落した罪深い人間だという事実を認めたところから、方向転換をして、御霊による
新しい生き方を、新しい人を着て始め出すのです。それは、自分に信頼するのではなく、イエス様に
信頼して行く生き方です。どうか、「主に委ね、主に信頼し、主が成し遂げて下さる(詩篇37:5)」
という、その一点に集中して、残りの生涯を主の御心のために、生きて行きましょう。そして、その中に
あって、「霊的な努力をし、上に召して下さる全能主の栄冠と、全能主が与えて下さる義を追い求めて、
ひたすら努力して行こう」ではありませんか。
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