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2022年10月16日

我が身を主に委ねる

マタイの福音書 26:69~75


(起) マタイの福音書26章69~75節より、「ペテロが三度イエス様を知らない」と否定したこと

から、私たちは、決してペテロのように道を踏み外すことがないように、聖書の言葉に基づいた冷静な

判断を心掛け、「我が身を主に委ねて行くこと」を学んで行きたいと思います。


(承) さて、ここを読んで一番ショックなことは、「たとい、あなたと一緒に死ななければならないと

しても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(26:35)
とまで言ったペテロが、26章

74節では、「激しい呪いの言葉をもって、『そんな奴なんて知らない』とわめいて、誓い始めた」こと

です。ペテロが、「そんな奴なんて知らない」とまで言ってしまったのは何故でしょう?おそらく、祭司

長たちがイエス様を捕えに来た時に、イエス様が何の抵抗もせずに捕らえられた姿を見て、弟子たちは

ガッカリし、騙されたような気持ちになってしまったのではないでしょうか。彼らは、それまでユダヤ人

の王となるお方として期待して従ってきたのです。それなのに、ユダヤ人の王となるメシアがこんなに

まで簡単に捕らえられてしまっては、その期待感が一瞬にひっくり返され、「家や家族まで捨てて従って

来た」ことが、何だったのかと失望したのです。それでも、ペテロはイエス様が、いろいろな奇跡や

しるしを行われた力強い御方でしたから、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ていたのです。

この時には、まだペテロにとっても諦めきれないものがあったのでしょう。もしかすると、「イエス様は

最後に何か奇蹟を行われるかもしれない」という期待感があったのかもしれません。
しかし、イエス様は

大祭司の前でもずっと黙っておられ、少しも抵抗されませんでした。そんな中で、ペテロは、「あなたも、

あのガリラヤ人のイエスと一緒にいましたね」と声をかけられ、皆の前で、「あなたが何を言っているのか、

私にはさっぱり分かりません」と、言ってしまったのです。そして、最後には激しい呪いの言葉で、「そんな

奴なんて知らない」とまで、腹立ち紛れになって言ってしまいました。そこには、行き場を失った、()

切れない感情が働いたのでしょう。つまり、「今までイエス様に信頼して従って来た気持ちが全部裏切ら

れた」という感情が爆発してしまった結果、この言葉が出てしまったということです。もし、私たちが

患難時代に入った時、このペテロと同じように、これまでイエス様を信じて来たのに、「何で助けて

もらえないの」というような感情の中にはまり込んでしまったら、背教者となって終わってしまいます。

ですから、私たちは、決してそうなってはいけません。


(転) では、私たちが将来そうならないためにはどうしたらいいのでしょうか。それは、物事を、感情

ではなく理屈に基づいて考えて行くことです。
感情というのは、常に自分の都合のいいように働きます。

だから、感情で物事を捉えることは、悪魔の餌食になるだけです。
まさにペテロは悪魔の餌食となって

しまいました。ですから、私たちは自分中心な感情で物事を捉えることをやめ、理屈で考えて行くことを

今から身に付けて行く必要があります。
しかし、それはどこまでいっても、聖書の御言葉を土台にし、

聖書の価値観の中で心を動かしていくということです
。即ち、全能主の価値観の中で、物事を理性的に、

論理的に考えて行くことです。その為には、聖書の御言葉を暗唱することが大切です。特に、今後、

私たちが患難時代に入った時には、聖書がありません。しかし。自分自身の中に御言葉の蓄えがあれば、

御霊様がその御言葉を思い出させて下さいます。例えば、患難時代の真っ直中で、逃げ出すことのでき

ない状況の中に置かれた時、そこから抜け出したい感情が真っ先に出て来るでしょう。そんな時、イエス

様がひれ伏して、祈られた御言葉を思い出すのです。「わが父よ。もしできることなら、どうかこの杯を

わたしから過ぎ去らせて下さい。」
「しかし、わたしが願うようにではなく、あなたのみこころのままに

成さって下さい。」
(マタイ26:39)という御言葉です。私たちも死にまで追いやられれば、きっと

恐れおののき、逃げ出したくなるでしょう。しかし、「私の願うようにではなく、あなたのみこころの

ままに成さって下さい」
と、切り替えることができれば、心も定まり、自分の感情から離れることが

できます。こうして、私たちは聖書の御言葉によって、理屈に基づいた冷静な判断をして行くのです。

その為に、暗唱した御言葉は、大きな助けになります。そして、御言葉を土台にした理性的な判断が

できるようにしておくべきです。


(結) ですから、御言葉を思い出すことは、私たちにとって救いです。ペテロは、イエス様が語って

おられた内容をどうしても思い出すことができませんでした。しかし、もし受難告知の時に、「わたしは、

祭司長、律法学者たちに殺されます。しかし、三日目に甦ります」と、何度も語っておられたイエス様の

言葉を思い出すことができたなら、呪いの言葉を使って、「そんな奴なんて知らない」とまで言わなくても

済んだでしょう。むしろ、「それなら自分もイエス様と一緒に、父のもとに行こう」という気持ちに

なれたかも知れません。
確かに、罪深い人間ですから、どうしようもない感情の中に取り込まれてしまう

ことは仕方がないかもしれません。しかし、そこで終わってしまってはいけません。ペテロの場合は、

その後、「立ち直ること」がイエス様によって祈られていました。そして、聖霊の満たしの約束もありま

した。ですから、失敗の後でも、力強く立ち直ることができたのです。しかし、私たちの場合は順番が

違います。聖霊の満たしを受けてから、患難時代に入って行くのです。だから、ペテロと同じように、

後悔(こうかい)した後にもチャンスがある」と考えていてはいけません。患難時代では、信じるか信じないかで、

全てが決まるのです。
ということは、患難時代では、はっきりとイエス様を信じる者の証しを示し、

「勝利を得る者として、殉教して行く」のです。どうか、私たちは、最後にペテロのように道を踏み

外すことがないように、御言葉によって理屈に基づいた冷静な判断をし、我が身を主に委ねる心を

示して行こうではありませんか。
 



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