2021年9月12日
『霊の上澄みの部分で生きていく』
マタイの福音書6:33
(起)マタイ6章33節の御言葉から、「霊と肉を分け、沈殿した肉の思いから離れて上澄みされた
霊の部分で判断し、本気で全能主に懸けて行くこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、私たちはこの地上で肉を持って生きている以上、失敗もするし、罪も犯してしまいます。
だから、本来なら、私たちは生まれた時から地獄行きの罪人でした。ところが、そんな私たちと同じ
肉の性質をイエス様が担って下さり、私たちの肉の問題を全て背負って贖いをして下さいました。
ですから、その御蔭で私たちの罪の問題は解決されたのです。ただし、この贖いはアオリスト形ですので、
今現在の自分の状態如何に関わらず、過去にイエス様の成された贖いを根拠にして、全てが解決された
ものです。ですから、今現在、罪の性質が無くなっているというわけではありません。罪からの完全な
解放は、「イエス様の再臨の時に、主と全く同じ姿に変えられる時です(ピリピ3:21)。」です
から、この贖いを信じ続けていくのがクリスチャンの信仰の在り方です。ということは「クリスチャン
は、救われた罪人」ですから、現在の自分を見ると、罪の性質は死ぬまで持ち続けなければなりま
せん。しかし、それでも私たちは、図々しく信じ続けていくことは、キリストの贖いの故に正しい信仰な
のです。このように、キリストの贖いが無条件に与えられることは、実に感謝なことです。こうして、
イエス様を信じる前も、信じた後も、命閉じる時までの全ての罪に対する贖いがあるとしたら、私たち
はどこまでも図々しく「全能主に従います」「イエス様を愛します」と言い続けること出来ます。
ですから、「自分は弱いし、失敗ばかりしているから、そんなことは言えない」という不信仰な、
後ろ向きな考えに囚われるべきではありません。どこまでも、弱い自分の肉を抱えつつも、イエス様
を信じ続けて行く信仰は、「あなたの信仰の通りになれ」と言われるイエス様の御心に適うことです。
(転)では、その信仰の在り方が分かった上で、私たちはこの地上にいる間、自分の肉の問題にどう
向き合って行けば良いのでしょうか。それは、極端に言うと「どうでもいい」という考えに立つこと
です。どういうことかと申しますと、この地上の生活を営んでいく時、日常的にいろいろな問題が
起こって来ます。そして、その肉の問題を全て自分の中に抱え込めば、霊と肉がごちゃ混ぜになって、
どうすれば良いのか分からなくなってしまいます。ところが、「肉の問題なんてどうでもいい」と
思えた瞬間に、肉の部分が心の器の下の方に沈み、霊の部分が上澄みで出て来ます。すると、霊的な
判断が出来るようになるのです。これが霊と肉を分けるということです。だから、「どうでもいい」という
言い方はちょっと乱暴かもしれませんが、肉から離れて、冷静に対応する為には、大事なポイントです。
これを身に着ければ、肉に捕われることなく、「全能主に従います」、「イエス様を愛します」という霊的な
上澄みの部分から、全能主を第一にして仕えて行く生き方が始まるのです。全能主は、その心を持った
者を放ってはおかれません。マタイ6章33節では「まず第一に、全能主の国と全能主の義とを追い
求め続けなさい」とあります。この「まず第一に」というのは、肉の問題と霊の問題を分けて、霊の
上澄みの心で「まず全能主に従うことを第一に考えて行きなさい」ということです。そのようにする
なら、「これらのものは、すべて添えて与えられます」という言明です。ですから、全能主を第一に
し、全能主に懸けて行く者には、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という問題に
おいても、全て全能主が導きを与えて下さる」ということです。しかしながら、現実問題、私たちには
働くことも必要だし、実際に肉の世界で働いて、そこにエネルギーを注いで行かなければなりません。
でも大病もせず、その「働く力」を全能主が下さるなら、この世の全ての事も、委ねて行って良いのでは
ありませんか。多くのクリスチャンは、このところで迷い、躓いているのではないでしょうか?
その原因は、全能主に信頼することを徹底してないからです。信頼すると決めるなら、自分で思い煩って
行かなくても良いでしょう。それは、どんなに感謝な事でしょうか。ですから、「自分はこの世の仕事
ばかりに目を向けて、心が世的になっているからダメだ」と思う必要はありません。なぜなら、そこ
で霊と肉を分ければ良いからです。「自分は、世に人生を懸けている訳ではない。自分には上澄みの
部分がある」と、霊の世界で考える自分に立ち返えれば、その瞬間に霊と肉を分けて考える自分が
現れ、主のために役立つ道が見えてくるでしょう。この分ける作業を、私たちはいつもすべきです。
また、私たちには「内住の御霊」がおられます。この御霊様は、天に上がられたイエス様の代わりに私たち
の側にいて、いつもアドバイスを下さり、助けて下さる御方です。只し、聞く姿勢を持つならば
聞こえてきます。ですから、「内住の助け主」によって「私が今、肉体にあって生きているのは、私の
ために御自身をささげられた、全能主の御子を信じ仰ぐことによって、生きているのです」(ガラテヤ
2:20)と、パウロが言った、言葉通りの具体的な生き方が、この地上にあって出来るのです。
これが、上澄みの部分で生きて行く生き方です。まさに、先程もお話ししたように「まず第一に、
全能主の国と全能主の義とを追い求め続けなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与え
られます」ということを本気で信じていくなら、全能主はその者を放っておかれません。むしろ、全能主
の方から「砕かれた、悔いし心を軽しめない」と言って、霊の祝福を揺すり入れて下さるのです。
(結)こういうわけで、私たちの肉の部分は、イエス様が贖って下さったのですから、もうどうでも
いいのです。この地上に置かれている限り、肉の失敗なんていくらでもあります。その肉の性質を
見始めたら、誰も主にお仕えすることは出来ません。しかし、そこで霊と肉をきちんと分けて、肉に捕わ
れるのではなく、全能主を見上げるなら、それでいいということです。その霊的な上澄みの部分で
全能主に懸けて行くのです。こんな図々しい生き方ができるのですから、地上の問題に対して不安に
思ったり、脅えたりする必要はありません。全能主は生活に必要な物を与えて下さるし、全能主に
信じ続けていく信仰は通用するのです。それをどこまでも追い求め信じて行くのが、クリスチャンの
在り方です。そうでなかったら、私たちはいつも、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと
思い煩ってばかりいて、主のために役に立つことは出来ません。もう私たちの人生は残り少ないのです
から、その残り少ない時間を無駄にしないように、霊と肉をきちんと分けて、霊の上澄みの部分で、
本気で全能主に懸けて行こうではありませんか。
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