2021年6月20日
『全能主に従うのは当然、という悟り』
ヘブル人への手紙11:3
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(起)ヘブル書11章3節の御言葉から、「『全能主に従うのは当然』という悟りを、私たち自身
の当たり前の感覚として持ち続けて行く事」を学びたいと思います。
(承)さて、11:3を見ますと、「主を信じる心によって、私たちは、この世界が全能主の言で創られ
たことを悟り、したがって、見えるものが目に見えないものから出て来たことを、悟るのです」と
あります。この御言葉を通して、「信じるとは、悟るということだ」と語られていますので、その
悟りとは何か?を考えて行きます。まず、「信仰=悟り」とは、どういうことかと言いますと、信仰と
は、聖書の真理を理解した時、その真理が心に結びつけられ、その知識に従って以前の考え方がガラッと
変わり、その知識に従って行動する事を悟りと言います。例えば、「天動説が当たり前と思っていたこと
が、地動説の方が正しい」と分かった時、これまでの考え方がガラッと変わって、地動説の考え方に
基づいて、新しい物の見方による世界観で行動が変わって行きました。それと同じように、「私たち
の命の起源は、進化論が当たり前と思って、『人間は猿から進化して今の姿になった』と思っていた
ことが、聖書を通し『全能主というお方がおられ、目に見えるものが、目に見えないものから出て来た
ことを知って、人間の命は、偶然の進化による産物ではなく、全能主がDNA遺伝子によって、綿密に
設計とデザインを施され、生き物を創造されたという創造論の方が正しい』」と分かった時、これまでの
考え方がガラッと変わって行きました。しかし問題は、地動説の場合と違って、考え方がガラッと変わった
割に、新しい物の見方による世界観で行動していくという、生き方が変わる所まで至っていないのが、
クリスチャンの潔さのない所です。それは、「創造主が人を創られたのならば、人間の存在の主権は、
人に有るのではなく、全能主に全ての主権があります。」なのに、クリスチャンが無条件に従う存在だ
と悟って行動して行くところまでは至っておりません。なぜなら、「人間は自由意志を持っており、自分
のことは自分で決めたい」という考えを、捨てたくないからです。ですから、クリスチャンにとって、
進化論は仮説であって、聖書を信じることは正しいのだと喜べたとしても、未信者のように「人間の思い
通り生きたいという」自律心を失いたくないという反面を強固に自分の砦として持っているのです。
それは、「もし自分が聖書に疑問を持てば、いつでも信仰から離れる権利を保っていたい」という罪の
自我が砕かれていないからです。だから、未だに自分の主権は、自分にないことを認めていないのです。
ですから、「人間の主権は、制作者である全能主にあること」が分かっても、その悟りに基づく新しい
生き方までには至っていないのです。それはただ、知識を得ただけであって、悟った事にはなりま
せん。また、信じた事にもなりません。問題は、「信仰は悟りだ」という所まで至っていないこと
です。ですから、クリスチャンの多くが「進化でなく創造だ」と言うことは、もう十分分かったけど、
「創造だから何なの?」という大切な所が教えられていないので、ただ創造論を信じるところだけでストッ
プしていて、多くのクリスチャが「創造であるならば、私たちの命の主権は、自分にはなく全能主に
あるのだから、私たちは全能主に対して文句を言う権利はないし、全能主の御心に従って行くのは当然だ」
という事が、心の中に留められていないのです。それは、主に献身的になるのを嫌がっているからです。
未だに「自分の命は自分のものだ」という意識が強いため、説教者も信者が離れていかない為、そこの
肝心な所を強調しないのです。それは、「全能主を信じる事と、全能主に献身的になって行くことは
別だ」と考えている説教者がいるからです。もし私たちが創られた命なら、問答無用で「自分の命は全能主
のもの」ですから、「全能主のために生きるのは当然だ」という説教をすべきなのです。それが信じた者の
当然の行為であり、それを悟ったということです。だから、少なくとも、私たちは聖書が正しいという所
に懸けて行動する所まで至るべきです。
(転)この事は、聖書の読み方に関しても言えます。私たちは、聖書の中でなかなか理解できない部分が
あります。例えば、黙示録には患難時代の事について書いてありますが、多くのクリスチャンが「黙示
録は恐ろしい事が書いてあるし、内容が難しくてよく分からないから読みたくない」と言う人がたく
さんいます。そういう人は、「患難時代の前にクリスチャンは天に引き挙げられる」という脳天気
な考えに騙され、自分にとって都合の良い教理に心を向けているのです。しかし、よく読めば聖徒は
患難時代に獣と対峙するのは、当然の事として記されており、決して避けられません。ですから、
「恐ろしいから」とか「よく分からないから」という感情ではね除けるのではなく、「全能主を通して
書かれた聖書は全て正しい」という前提に立って、聖書をそのまま読んで理解しようとすれば、書か
れている事の意味が段々見えて来ます。確かに黙示録には、この世の裁きに関する恐ろしい内容が記されて
いますが、むしろキリストを信じる聖徒たちにとっては、「勝利を得る者」に約束された「聖なる都
に入る幸い」が記された書なのですから、たとえ獣に命を奪われても、「死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、わたしは命の冠を与えよう」と言われて、「聖徒の忍耐と信じる心を通した者がここに
いる」と、ルシファーに突きつけることが全能主の目的であり、全能主がその者たちを「聖なる都に
導き入れる」ことを目的として書かれたのが黙示録なのです。ですから、「勝利を得る者」を聖なる都
に入れるという奥義こそが、全能主が人間を創られた本来の目的です。だから、私たちは「患難時代を
通りたくない。死ぬのが怖い」と言って逃げるのではなく、信じた者が殉教してまで全能主に従う
姿こそが、信仰者の証であり、それが信じた者の当然の行為であり、それを悟ったということです。
この生き方を通して行く事こそが、全能主の願っておられることで、全能主が人間を創られた真意
なのです。
(結)こうして、私たちは、自分の命やこの体、この世界が全能主によって創られた事がよく分かり
ました。ならば、それをただの知識だけで終わらせてはいけません。全能主が私たちの命を創造され
たのなら「自分の権利はありません。全能主に従うのは当然です」という、この全能主ありきの世界で
生き、この生き方が信じて悟った者の信仰のあり方です。私たちは、この理解の中で全ての物事を見て、
考えるべきであり、そこから離れて自分勝手に判断してはいけません。むしろ、「死に至るまで忠実
でありなさい」と、全能主に従い通した者が、最終的に「勝利を得る者」となり、「聖なる都エルサ
レム」に入れられるのです。どうか、創られた者が自分の主権を行使して、「ああだ、こうだ」
と御託を並べて、「自分には、自分の思い通りに生きる権利が有る」などと言って、傲慢な生き方をする
ことは、全能主に逆らって生きて行く、反キリストの霊です。むしろ、『全能主に従うのは当然』という
悟りを私たち自身の当たり前の生き方として持ち続けて行こうではありませんか。
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