2021年5月23日
『遜りの心を持って、全能主にお仕えしていこう』
ローマ人への手紙5章~12章
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(起)ロマ書5章~12章の内容を学びつつ「救いはアオリスト形である」という事実から、
「12章以後の戒めは、決して律法ではなく、救いに与った者として受け留めて行くもので
ある」という事、そして、「遜りの心を持って、全能主にお仕えしていく事」を学んで行きたいと
思います。
(承)さて、先週は主に4章までの内容を学びましたので、今日は5章から見て行きたいと思い
ます。5章では、 アダムという一人の人を通して罪がこの世に入り、全世界の人が罪の中に閉じ
込められてしまいましたが、それと同じように、イエス・キリストという一人のお方を通して、
全人類がキリストの贖いによって義と認められる道が開かれました。これは、ユダヤ人も異邦人も
関係なく、全世界の全ての人々を対象に語られています。これを受けて、6章1節では「全ての人
がキリストによって義とされると言うのなら、罪の中に留まっていても良いという事ですか」と
いう質問が出て来たのです。それに対してパウロは全面否定して、「罪の中に留まるべきではない」
ということを解き明かしています。それによりますと、「イエス・キリストの贖いを信じた者は、
罪に対して死に、罪から解放された」という理由から、「罪に対して死んだ人」は、「罪に留まる
べきではない」と語っています。それと同時に「律法からも解放された」人は、「あれをしてはいけ
ない、これをしてはいけない」という戒めからも解放されたので、律法の奴隷ではなく、律法に
対して自由にされた立場を持っているため、「罪の中に留まるべきではない」と語られているのが
結論です。これは、クリスチャンへの福音です。即ち、キリストの贖いに与った者は、もう、
「行いという律法からは、縛られていないということから、敢えて罪に心を向けるべきではない」
と言うことです。これが6章のPOINTです。ところが、「それでも自分は行いをしなければならない」
と思い込み、心の内側からの律法的な声に悩まされて、逆に罪の虜になってしまうことがあります。
それは、7章に記されているように、パウロも、「律法からも解放された救いを味わったのですが、
戒めが心に入って来た時、罪が息を吹き返し、私は死にました」と言っています。それは何故かと言い
ますと、人は完全な律法を守ることは出来ないのに、律法を好む性質があるからです。そのことは、
パウロも元々律法が好きなパリサイ人であったので、その律法に従って善をしようとする心が働いたの
ですが、本気で全能主の律法を守ろうとした時に、生まれながらの罪人が全能主の高いレベルに応える事
の出来ないことを痛感し、それを正直に認めた時に、「善をしようとする意志はあっても、それをする力
が無い」(ロマ7:18)という現実を知ったのです。ですから、パウロさえ自分が苦しみチャンになった
事を告白しているのです。これは、私たちも信じた後に同じような経験に陥ります。それは、「クリス
チャンになったのだから、良い人間に成らなければならない」という思いが入って来て、出来もし
ないのに、「キリストを信じたからには、キリストを証するために、出来なくても頑張らなければ
ならない」と、思ってしまうからです。しかし、善を行いたいという思いがあっても、それを行う
力がありません。だから、私たちも悩み「苦しみチャン」になってしまうのです。そこで、今日
はっきりさせておかなければならない事は、キリストの救いはあくまでもアオリスト形であって、
現在の自分が、「キリストを信じたら善良な人間になる」と思うのは間違っているということです。
なぜなら、キリストの救いには、私たちの努力が一つも入っておりませんので、変わる訳がないのです。
それでも「アオリスト形の救いは、現在の自分の状態が肉のままであっても、過去に実現したキリ
ストの贖いを根拠に、信仰によって与えられる立場を示しています。」アオリスト形は、現在の状況に
関わりなく起ったことを示す過去形だからです。ですから、「キリストの贖いによって、罪から解放
された自分がいる」という救いが、キリストの身代わりの福音なのです。私たちが、キリストと
同じ姿に変えられるのは、御国に入れられる時です。それまでは、先程も申し上げたように、イエス・
キリストの十字架によって過去に成された贖いを、私たちは信仰によって受け取り、御国の約束に預かり
ましたが、現在の姿は命を閉じる時までは、肉のままなのです。しかし、私たちが御国に入れて頂くとき
は、罪から完全に解き放たれた者として入れて頂けるのです。このように、私たちは救われた感覚や実感
が伴わなくても、罪から解放されたものであることは間違いありません。ですから、アオリスト形の
救いを無理矢理、実感で味わおうとするのは間違っています。それは、「この地上にいる限り、肉の
世界から完全に解放された」訳ではないからです。パウロはそれを7章24節で語っています。
また8章18節では、「今の時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べれば、取るに
足りません」と言っているように、地上にいる限り、パウロは苦しみの現実があることを語っています。
このように、彼はキリストの贖いによって罪から解放された立場と、現実として今、肉を持って
いるが故の苦しみがあるという事実を認めていますから、苦しみがあると語っているのです。
しかし、そういう苦悩があっても、全能主から私たちを引き離すものはありません。なぜなら、
全能主が「もはやお前たちの罪は思い出さない。お前たちの罪を数えない。」と言って下さる救い
は、完全に全能主の側でなされた救いとして、天の御国で完全に完結するからです。そして、その
全能主の憐みと恵みによって救われた者たちは、「御子と同じ姿に変えられる者」と定められて
いるのです。(8:29、ピリピ3:21,Ⅱコリント3:18)
(転)それならば、肉のままの自分でも、私たちは全能主が正しいと考えておられる方向へ進んで
行くべきです。その具体的な生き方が、12章以後に語られている戒めです。これは、律法では
ありませんので、救いとは関係ありません。しかし、クリスチャンとしての地上の生き方の証なのです。
その証拠に、9~11章では「主を信じ仰ぐ心によらないで、律法の行いによって得られるかのよう
に、追い求めたイスラエルはつまずきました」(9:32)とあるように、人間の行ないが救い
ではないからです。私たちは、救いがどこまでも律法であるかのように考えれば、つまずくだけ
です。それは、イスラエルに対してだけでなく、私たちにも言える事です。私たちも、アオリスト形
の救いをいただいておきながら、尚も行いによって認めて貰おうとすれば、迷路にはまるだけ
です。「自分は救われたのだから、これをしなければならない、あれをしなければならない」という
方向に向かってしまいがちです。すると、そのうち自分自身の信仰が分からなくなり、救いがどこ
にあるのかさえ分からなくなってしまいます。そして、先程お話しした7章のような苦しみの中に
戻ってしまうのです。だから、12章からの戒めを、決して律法的な意味で捉えてはいけません。
12:1を見ますと、「全能主の憐れみによって、あなた方に勧めます。あなた方の体を、全能主
に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」とあります。これは、「憐みによる勧め」
ですから、義務とか、私たち自身の努力によって義を勝ち取って行くという内容ではありません。
「私たちは、既に贖われた者、また全能主の子とされた者」ですから、「全能主の子として、全能主が
正しいと言われる事を受け留め、そこに心を向けて行けば良い」のです。だから、12章の内容は、
決して行いによって義を掴むためのものではなく、また、これをやらなかったらダメというもので
もありません。しかし、だからといって、全能主の義、全能主の正しさを無視していい訳ではあり
ませんから、私たちは全能主の救いに与った者として、全能主の心を前向きに捉え、受け留めて、
全能主が正しいと思っておられる方向へ進んで行くべきです。
(結)私たちは「イエス・キリストの贖いの故に、どんな罪人でも義と認められる」という立場を
アオリスト形で頂きました。それは、「イエス様と同じ姿に変えられ、全能主の御国の中で生きる事
が出来る」という素晴らしい救いなのです。そこまでのものを頂いているのですから、私たちはこの地上
で自分勝手な生き方をするのではなく、全能主が正しいと言われる事に心を向け、「私たちの体を、
全能主に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げて行こう」と思う(ロマ12:1)のが、正常な
クリスチャンの姿ではないでしょうか。また、「罪を数えない」と言って下さる、全能主の大いなる救い
を、大いに喜んで生きて行くのがクリスチャンなのです。ですから、キリストのアオリスト形の救い
に預かっていますから、「行ないが出来なくても、義とされない」ということではありません。
これが全能主の「真理の二面性」なのです。私たちは、こんなすごい救いを頂いているのですから、
むしろ、積極的に献身の心を持って全能主の国を追い求め、地上の残りの生涯を、「遜りの心を
持って、全能主にお仕えして行こう」ではありませんか。
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