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2021年4月4日
   『グレーな信者ではなく、                 
     明確な信者として全能主に従って行く』


ヨハネの黙示録9:1~12


(起) 黙示録9章1節~12節の「イナゴの災い」の箇所から、「グレーな信者ではなく、

明確な信者として全能主に従って行くこと
」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、黙示録に記されている患難時代の出来事は、天で起きる事と、地で起こる事の両方

が、ごちゃ混ぜに記録されています。ですから、今日(きょう)は、天の出来事と地の出来事を区別して、

「地ではどんな順序で何が起こってくるのか」、ということを見て行きたいと思います。

まず第7章までの内容は、患難時代に起るアウトラインですので一旦横に置き、第7の封印が

解かれた後、8章から始まる患難時代の地上の出来事を見ていきたいと思います。そこで、1節

から見ていきますと、「小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかりの静けさがあった」とあり

ます。この「静けさ」というのは、アウトラインの方では「白い馬」(6:2)と表現されてお

り、それは「偽りの平和」を意味しています。具体的には、イスラエルとアラブの和平に違いあり

ません。現在、イスラエルとアラブは長い間戦いを続けており、その戦いは世界を巻き込んでいま

す。ですから、そのイスラエルとアラブが「和平を結ぶ時」、一時的に
世界が「平和だ。安全だ」

という時が起ってきます
。そして、イスラエルが神殿を建設します。それをするのは、ユダヤ人

でもアラブ人でもなく、ルシファーしかあり得ません。だから、そのようなことが起こって来た

ら、「いよいよ患難時代に突入して行くのだ」と思って良いでしょう。そして、次に
七つのラッパ

が次々に吹かれ、
平和を奪い取る出来事が次々に起こってきます。具体的には、地の3分の1が

焼け
海の3分の1が死に川の3分1の水が苦くなり太陽の光が3分の1を失い、そして

イナゴの災い
と、火と煙と硫黄によって地上の人間の3分の1が死ぬ、ということが第6のラッパ

までに起こってきます。その後、10~12章は、天で起る宣言としるしですので横に置き、地上

で実際に起こってくる出来事としては、第7のラッパの吹かれた13章まで飛んで行きます。

13章で
獣と偽預言者が出現し、14、15章は宣言ですので、そこを飛ばして、次に地で起る

ことは、16章の
7つの鉢の災いです。これは、最後の災いとして起ります。次にこの最後の災い

が終わった後に、
17、18章で大バビロンが一日の内に滅び19章でイエス様の再臨があり

ます。イエス様の再臨によって、ついに獣が裁かれ、この地上での出来事は全て終わりです。

これが、8章から19章までの地上での出来事のまとめです。


(転)では、今日(きょう)はその中でも、第5のラッパの「イナゴの災い」について見て行きたいと思い

ます。この内容は、私たちクリスチャンにも深く関わりがあるものです。どういうことかと言い

ますと、
「額に全能主の印がない人間にだけ害を加える」とありますので、逆に「額に印が押さ

れた明確なクリスチャンは、害を受けない
」と言うことです。しかし、ここで印が押されない

グレーな信者もいるということは明白です。額に印がない未信者とグレーな信者は、死にたいと

願っても死ぬことのできない程の苦痛が五ヶ月間も続きます。(グレーな信者は、白き御座にて

最後に審判を受けます)しかし、
額に印がある者はその苦痛を受けずに済みます。だから、この

イナゴの害を受けるかどうかということは、私たちクリスチャンにとって非常に重要な問題なの

です。
そこで、「明確な信者」とはどのような信者かといいますと、「砕かれた悔いし心を持って

いる信者」
の事です。この砕かれた信者とは、キリストの救いが罪人のための贖いですから、

そのことを信じたクリスチャンは、
罪を指摘された時は自分の我を砕いて認めることの出来る人

です。
そのような人は、決して自己弁護をしない人です。なぜなら、イエス様は「義人を招くため

ではなく、罪人に悔い改めをもたらすために来たのです」(マルコ2:17)、と言われたのです

から、その救いを喜んでいますので、自分の我を砕けるのです。しかし、多くのグレーのクリス

チャンは、自分の罪を指摘されるのを嫌がります。なぜなら、罪人であっても、その罪を認める

ことを嫌い、遜らず、弁解し、すね、反抗的になるのです。そういう人は、自分の罪を認めてい

ない事になります。ですから、たとえ信じたと言えども、グレーな信者は一杯いるのです。イエス

様の救いは、罪人の為の贖いであることを信じた筈なのに、多くのクリスチャンが、自分の罪を

指摘されて怒られると反発して、反抗し、
自分の我を砕こうとしません。これでは、「キリスト

の贖い以外に、罪の赦しはない」
ということを認めていないことになります。また、信じたとして

も、「
自分の罪が分からない」という人もいるのです。そういう人は、未信者時代と同じように、

自分の義を立てて生きようとしているからです。その人はボーンアゲインされていないのです。

しかし、聖書には
義人は一人もいないと明記されていますので、「本来の人間は生まれながらに

罪人ですから、罪を指摘されたら、その場で自分の我を砕いて遜るべきです。」
なのに、依然と

自分の罪を認めないで、遜ることをしようとしないクリスチャンは、
「グレーな信者」と言うほか

ありません。彼らは、形だけのクリスチャンで、
ルシファーと同じ火の池に投げ込まれてしまい

ます。
ですから、明確な信者とは、「全能主とイエス様の前に、いつも悔いし砕かれた心」

持っている人のことです。この「砕かれた悔いし心」を持った信者は、グレーの信者とは区別され

ます。なぜなら、
罪を認めた者には、全能主がその者を「(かろ)しめない」と仰って下さり、その

信じる心を全能主が認めて下さっている
からです。この事実があれば、それ以上何もいりません。

それなのに、なぜ私たちは「あれをやりました、これをやりました」という律法主義に陥り、(わず)

ばかりの自分の義に頼るのでしょうか。それは信じるだけでは物足りなく、
未信者時代のように、

善き行いによって認めて貰おうとしているからです。
これは、律法学者のように、自分の義に

立とうとしていることです。律法主義は見せかけの偽物に過ぎません。キリストの救いは、
「自分

は、間違いなく罪人です」と本気で認め切っている人の為にあります。
このような人は、弁解しま

せん。ですから、生まれながらの罪人が、
尚自分の義と能力に頼っているなら、グレーな信者と

言う他ありません
。キリストの贖いとは関係ないのです。しかし、実際に私たちは、誰が見ても

罪人で有ることに間違い有りません。ですから、その事実を認めた人には、イエス様がその人の

ために贖いをされたのですから、恩恵にあずかれるのです。
キリストの恩恵に預かった人は、

自分の気位(きぐらい)も、何もかも傷つけられ、馬鹿にされようが、その事実を認めて自分を砕き、

それで丁度の者だと認めることが出来るのです。
だから、私たちにとって、その「砕かれた悔いし

心」を表す為には、自分の罪を認める素直さが必要です。
罪人であることを認めていながら、罪を

指摘されてむくれる人は、印が押される事は難しいでしょう。
しかし、自分の我を砕いて行く人

は、その時に全能主の印が押され、明確な信者と認められていくのです。


(結)こういうわけで、明確な信者とグレーな信者の分かれ目は、
「自分の罪を認め、砕かれた

悔いし心を持っているかどうか」で決まるのです。
自分の罪を認めずに棚上げする者は、全能主に

心を向けず、自分の行いに根拠を置こうとします。
そのような頑固な人には、印は押されません。

イエス様は、人間が自分の罪を消すことが出来ないために、贖いの死を身代わりとして受けて

下さったのです。ならば、
へりくだって「自分は罪人ですから、私にはイエス様しかありません」

と、心から信じるだけです。そのような者に対して、全能主が印を押して下さるのです。そして、

死に至るまで忠実な心を持ち続けるなら、殉教に繋がるのではないでしょうか。どうか、死に至る

まで忠実な心を表し、「
勝利を得る者」となって、新しい天と新しい地の中に入れて頂きましょ

う。そのためにプライドは必要ありません。もし
私たちに、何かできることがあるとするならば、

「私には罪しかありません」と涙を流して全能主に近付くことぐらいです。
その砕かれた悔いし

心を全能主は軽しめられませんので、私たちはどこまでも遜って、明確にキリストの贖いを信じ

ている者として、大胆に全能主に従って行こうではありませんか。


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