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2020年2月7日
魔物の声を封印して

ルカの福音書22:39~46

(起)ルカ22章39~46節のイエス様のゲッセマネの祈りから、「生まれながらの肉は封印

されないと、全能主の栄光のために生きて行くことはできない
」ということを学んで行きます。


(承)さて、イエス様は十字架に向かわれる前に、「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯を

わたしから取り除けて下さい」と祈られました。その時、汗が血のしずくのように落ち、御使い

が力づけなければならないほど、苦しみ(もだ)えておられました。多くの人はこの箇所を読んで

「全能主の御子が何故こんな祈りをされるのか?」と、疑問に感じるでしょう。しかし、そこで

覚えていただきたいのは、聖書には二面性があるということです。まずイエス様本来の姿について

の記事は、黙示録1:13~16に出て来ます。それは、栄光に満ちた天でのイエス様の姿です。

もしイエス様が、その栄光の姿のままこの地上に来られたら、誰一人近づくことはできません。

また、イエス様が人間に捕らえられ、十字架に付けられて殺されるなんてことは、ありえません。

ですから、イエス様が人の贖いをするために地上に誕生される時には、その栄光の力を制限する

必要がありました。そのために、イエス様はマリヤを通して人の肉をお取りになったのです。

イエス様がマリヤのお腹から生まれるということは、マリヤの卵子を使っているということです

ので、イエス様は当然マリヤの遺伝子を受け継ぎ、マリヤの肉の影響力を(にな)って「人の子」

の姿を持ってお生まれになりました。すなわち、創造主としての在り方をお捨てになって、人と

同じように、人間としての有様を持って現れました。だから、この二面性を持っておられたため、

このような人間の弱さをさらけ出されるような祈りをされたのです。もしイエス様が完全な全能主

の御子なら、このような祈りをされるはずがありませんし、苦しみ悶えることなんてこともあり

得ません。また御使いが力づける必要もなかったはずです。しかし、この姿は、私たち人間と

同じような肉の姿を持たれたからこそ、人の罪の贖いが出来たのです。聖書は、まさにありのまま

のイエス様を記しています。ですから、そのまま読んでいけば、この二面性がよく理解できるはず

です。



(転)では、そのことを覚えながら、イエス様の祈りの言葉を改めて読んで行きますと、イエス様

は、「勇敢に死にますから助けて下さい」という言い方はされておられません。むしろ、「この

杯をわたしから取り除けて下さい」と祈られ、「この使命を降りさせて下さい、自分にはできま

せん」という弱さを訴えておられます。しかも、その祈りを三度も繰り返されました。ですから、

イエス様が、如何に(おび)え苦しみもだえておられたかが分かります。しかし、その後で、「わたし

の思いではなく、みこころのままにして下さい」と言われました。それは、「この杯をわたしから

取り除けて欲しいのですが、父の御心なら仕方がありません。御心のままにして下さい。」と祈っ

ておられます。肉を持たれたイエス様の本心は「ここを通りたくありません」というのが、あくま

でも本心であって、全能主のお考えとは違っていたのです。しかし、全能主のお考えは、「苦し

かろうが、やりたくなかろうが、必ずお前が人間の罪を背負って身代わりに死ななければならない」

というものでした。だから、これは「飲まずに済まされない杯だ」ということで、「自分には

『できます』とは言えませんでしたが、どうしても行うべき使命でしたら、御心のままに為さっ

て下さい」と父の御心に従って行かれたのです。これは、
あくまでもお手上げです」という前提

、従って行かれたことです。実は、これはとても大切なことです。私たちはいつも、「やります

から助けて下さい」
という言い方をしてます。それは、子供の頃から、やりますという前提で

助けて下さいと言わなければ受け入れてもらえなかったからです
。しかし、これは、この世のやり

方です。この世は、
「私にはできません。」と言えば、「お前はやる気があるのか」と、怒られて

しまいます。
ところが、全能主の前には、「まず自分には出来ません」ということを本心から

認めた上で、助けを求めなければ成りません。なぜなら、「自分はやるから、助けて下さい」という

方法は、出来た時には自分の栄光にします。それなら、全能主は利用されただけになります。

しかし、「自分には出来ません」と完全にお手上げ状態の中から、助けを求めた時には、たとえ

「出来た」としても自分の栄光にすることはできません。だから、私たちもイエス様のように「自分

にはそこを通って行くだけの自信も勇気もありません。しかし、それでも通らなければならない

道であれば、どうか助けて下さい」と、真剣にお願いすべきなのです。真剣にお願いした後に、

もしそこを通ることができたとしても絶対に誇れません。ただ、「主よ感謝します」と全能主の

栄光を誉めたたえることになります。それが全能主の御心に適った仕え方です。
罪人が栄光を取っ

てはいけないからです



(結)ですから、私たちは普段、何をするにしても、罪人が誇りを持つために()るのではありま

せん。むしろ、「自分はまともにできる者ではありません」という所で、砕かれた心を持って()

べきです。
もし、「自分がやりました」と誇るような感覚が出てきたら、それは魔物のバック

アップのもとでやったことです。魔物は人間に誇らせて、傲慢にさせ、地に落とすだけです。

だから、騙されてはいけません。その魔物の声は封印するべきです。
私たちは被造物であり、

罪人の頭です。だから、どこまでも全能主の栄光のために成すべきであり、自分の栄光を求め

てするのではありません。だから、
「生まれながらの肉は封印されないと、全能主の栄光のため

に生きて行くことはできない」
と言うことを肝に銘じてください。私たちは、ただへりくだって、

自分の栄光のためではなく、
魔物の声は封印して、全能主の栄光が崇められる生き方をして行こう

ではありませんか。

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