『わが父、わが父、どうしてお見捨てになったのですか』 |
イエス様の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という十字架上の叫びは、実はゲッセ
マネの園での祈りの延長線上にあった、イエス様の腹の底からの訴えです。ゲッセマネの
園では「わが父よ、もし出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい」と祈られ
ました。この時イエス様は、苦しみから逃げ出したいという気持ちが働いていたのです。
ですから、この言葉は、イエス様の偽りのない肉の感情の発露です。しかも、この叫びは
イエス様の感情から出た敗北宣言です。実は、この感情は、罪深い肉を持つ人間なら、
誰でも出てくる感情です。ですから、絶対主の御子としてのイエス様も「人間と同じ、
罪の肉の姿を持って遣わされたため」(ロマ8:3)、罪は犯されませんでしたが、この
弱気な心を発露されたのです。それは、全ての点で私たち人間と同じように試みに会われ
たからです。しかし、この弱気な心は罪ではありません。問題はその後の行動が重要です。
イエス様は、自分の弱気を正直に発露し、三回も絶対主に訴えましたが、最後には、
「わが父よ、もし、わたしがそれを飲まない限り、過ぎ去ることのない杯でしたら、
どうか、あなたの御心の通りになさって下さい」と、立ち上がられたのです。こうして、
肉を荷われた「人の子」であるイエス様が、もしこの肉の弱さを持たなければ、罪とは
一切関わりのない肉を持ったことになり、そこには一切人間的な弱さもなく完全無欠な
絶対主の子として、自分の弱さを出すこともなく、難なく十字架上の苦しみも通り過ご
されたことでしょう。すると、キリストの受難は、単なるイベントで終わってしまいます。
しかし、キリストは私たちの贖いのためにあえて人の子の肉を担われ、罪深い肉の償いを
されたのです。「キリストは、人としての肉の生活の日々には、激しい叫び声と涙を
持って」(ヘブル5:7)、「全ての点で人と同じように試みを受け」(ヘブル4:
15)、「祈りと願いをもって絶対主に従われた」とあります。ですから、イエス様は
人間の肉を荷われ、私たちの救いのためにそこまでして自分を低くし、罪人の償いをし
て下さったイエス様の愛を知ると涙するのです。このように、たとえ絶対主の御子であっ
ても、肉を担われたイエス様は、絶対主に従い通すために、多くの涙と、激しい叫び声
と、苦しみもだえながら、祈りの決断によって「純な綺麗事の信仰」を通された方です。
ここに、なりふり構わず、熱いハートを持って、絶対主の前に、遜りの伴った「悔いし
砕かれた心」をもって従い通されたキリストの模範があります。ですから、私たちもキリ
ストに習って、「純な綺麗事の信仰」に立つために、ゲッセマネの叫び声の中で決断する
必要があります。この祈りの決断なくして、絶対主への「綺麗事の信仰」を通すことは
出来ません。これまで、ゲッセマネの祈りは、イエス様だけのものと考えていました。
しかし、私たちも「綺麗事の信仰」に立つためには、苦しみもだえる中で、祈りによる
「定め」が必要なのです。そうしなければ、ただ頭だけで「純な信仰に立ちたい」という
思いだけで終わってしまいます。本気で絶対主の働きに参加し、「信じる者に働く全能
の力が、如何に偉大か」を知るためには、私たちが「信じる者」とならなければなりま
せん。この「信じる者」とは、思うだけではなく絶対主により頼む「綺麗事の世界に入る
決断」が必要です。私たちは、イエス様だけに「綺麗事の信仰」を求めるのでしょうか?
いいえ、ジョージ・ミュラーさんのように、信じたクリスチャンは皆、ここに立ったので
す。この信仰の証に立って、私たちは世界に出かけて行くのです。どうか、ゲッセマネに
入って下さい。そして、イエス様と同じように「あなたの御心の通りに為さって下さい」
と、「純な綺麗事の信仰に立つ」と心に定めて、なりふり構わず、熱いハートで向かって
従い通す世界に、飛び込みましょう。
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