信じる心とは、どのような心でしょうか? それは、「信じるぞ、信じるぞ」と自分
に言い聞かせることではありません。「自分に言い聞かせる」ことは、心の中に信じ
切れない不安と恐れがある証拠です。その不安を無理矢理、打ち消しても本気の信仰は
出てきません。むしろ、「信じる心は、当たり前」となっている人から、本気の信じる
心が出てくるのです。この本気の信仰とは、クリスチャンがキリストの救いを信じた
時には、皆現した信仰の心です。ですから、本気で信じる心は、全てのクリスチャン
が当たり前のように持っていていい筈です。ところが、信じてからこの本気の心が
失せてしまうのです。なぜなら、救われたはずなのに、自分の罪が無くなっていない
事実を思い知るからです。そんな中で、聖書を読んでいくと律法的になり、「正しい
人間にならなければ」という強迫観念に駆られてしまいます。すると、ただでさえ弱い
人間が、信じてからも行いを求められるなら「自分はもう駄目だ」と落ち込んでしまう
のです。こうなると、せっかく信じた心も弱くなってしまいます。しかし、この問題に
関して、聖書にはきちんと答えがあります。使徒13:39節をみると、「モーセの
律法では義とされることの出来なかった全てのことについて、信じる者は誰でも、
このイエスによって義とされるのです」とあります。ということは、キリストを信じ
者は、皆この律法的な枷から解放され、弱い罪人のままであっても救いの中に
入れられるという恵みがあるのです。しかしながら、救われていることが分かっても、
依然罪人であるという現実は変わりません。だから、その弱さから救われることを
願った者は、信じても尚、自分の弱さに打ちのめされると、信仰の力を失って、「罪を
悔いるだけで、へこんでしまう」のです。しかしながら、そんな私たちに対して、
絶対主はキリストの贖いを信じた者たちに、「罪を悔いる、砕かれた心を持っている
なら、それでいい」と言って下さるのです。なぜなら、「砕かれた悔いし心を、軽ん
じない」(詩51:17)と言われているからです。ですから、クリスチャンは、
この御言を本気で信じ、どこまでも絶対主に留まり続けて行く心を強く持ち続けて行く
べきです。なぜなら、私たちの救いはキリストの贖いに掛かっており、自分の行いに
根拠はないからです。それならば、私たちは、駄目な自分を思い知ったときこそ、
諦めないでその場で絶対主を見上げ、「絶対主に従って行く」と心を切り替えて、
絶対主に懸けて行く生き方をどこまでも続けて行くべきです。この心が、「信じる心
は、当たり前」という本気で信じる信仰なのです。
ところが、多くのクリスチャンは、そこで自分の弱さだけを見つめてただ落ち込み、
ひねくれて行き、絶対主が「罪を棚上げせずに、悔いる心を持ち続けていくなら、
それでいい」と言って下さっているのに、依然「駄目な自分」を見て自虐的になり、
「ただ信じるだけなら、自分を欺くことだ」と、心の弱さの中に逃げ込むのです。
これは間違っています。なぜなら、ただ悔いて落胆し自分の肉の弱さに逃げこむのは、
「砕かれた心ではない」からです。そこには本気の信仰のかけらもありません。それ
なら、いつまで経っても信じる者に働く全能の力を知ることはないでしょう。そういう
人は、救いがキリストの贖いであり、人間の正しい行いが根拠ではない事をもう一度
信じ直す必要があります。根拠はすべてキリストにあります。ですから、自分を幾ら
責めたとしても解決にはなりません。むしろ、罪を悔いたなら、「それでよし」と
言って下さる絶対主を見上げて、その絶対主を信じるが故に、本気で絶対主の助けを
求めながら、最善を尽くして行く生き方を始めだして行けば良いのです。
この切り替えこそが、「絶対主を本気で信じる信仰のあり方」なのですから。
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