2020年9月20日
『全能主へ100倍の恩返し』
マタイの福音書13:1~9、18~23、24~30、36~43
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(起)マタイ13章の種蒔きの譬えと、毒麦の譬えから「私たちは良い地に蒔かれた種として、
全能主に在って百倍の実を結ぶ者となり、全能主へ百倍の恩返しをする」ということを学んで
行きたいと思います。
(承)さて、13章から始まる譬え話の中で、種まきの譬えが最初に出てきます。この種蒔き
の譬えの中には、「道端に蒔かれた種」、「岩地に蒔かれた種」、「茨の中に蒔かれた種」、
「良い地に蒔かれた種」が出てきます。まず、「道端に蒔かれた種」とは、御言葉を聞いても、
その御言葉の種を悪魔に奪い取られてしまう人のことです。次に、「岩地に蒔かれた種」とは、
御言葉を聞いて、その時は喜んで受け入れますが根がないために育たず、すぐにつまずいて
終わってしまう人のことです。次に、「茨の中に蒔かれた種」とは、御言葉を聞いても、世の
心遣いと富の惑わしによって御言葉が塞がれ、実を結べない人のことです。次に、「良い地に
蒔かれた種」とは、御言葉を聞いて悟る人のことを言います。この人は実を結び、百倍、六十倍、
三十倍にもなっていきます。実を結ぶということはどういうことかと言いますと、「全能主で
ある父の御心を行う」ということです。「父の御心を行う」と聞くと、私たちはすぐ「何をすれ
ば良いのか」と律法的に考えてしまいますが、そうではなく、あらゆることにおいて「全能主の
側からものを考えて行く」ということです。すなわち、地上的な見方ではなく、「全能主の国と
全能主の義をまず第一に求めて行く」考え方です。私たちの教会は、それを踏まえた上でジョージ・
ミュラーさんの信仰に倣い「まず全能主の国と全能主の義を第一に求めてきた」教会です。
その結果、乏しい中にあっても、ずっと支えられ続けてきた教会です。ということは、私たちは
「道端に蒔かれた者」でも「岩地に蒔かれた者」でも「茨の中に蒔かれた者」でもなく、「良い
地に蒔かれた者」なのです。確かに、途中で心揺れることはあったかもしれません。それでも、
何とかここまで来たのです。後は、それぞれが、30倍の実を結ぶか、60倍の実を結ぶか、
100倍の実を結ぶかですが、私たちは全能主から100倍の恩を受けたのですから、100倍
の恩返しをするべきです。それが、今の私たちが置かれている立場であり、私たちに残された
歩みです。
(転)しかしながら、これからその働きの中で、私たちの教会に毒麦が入って来ることも確か
です。例えば、10万名教会が建て上げられた時に、そこに集められた10万名がみんな良い麦
だと思ったら大間違いです。そこに、悪魔が送り込んだ毒麦も混ざって来ることは十分考えられ
ます。例えば、世の中で地位のある人、能力のある人たちがやって来たとします。そういう人たち
は社会的に地位がありますから、彼らの教会運営に対するアドバイスは、教会に対して影響力を
持ちます。しかし、私たちの教会はジョージ・ミュラーさんの信仰に倣い「まず全能主の国と
全能主の義を第一にしてきた」教会ですので、地上的な損得によるアドバイスは受け止められない
ことがあります。しかし、信仰の幼い教会員は、どうしてもその影響を受けて世的な判断に陥り
ます。なぜなら、信じたからといっても、成長しなければ霊的な判断が出来ないからです。
そこで、毒麦の影響は、教会の脅威となり、幼い教会員はつまずいてしまいます。それは、私たち
の考えとは判断が違うからです。私たちの教会はどこまでも全能主に頼って行きたいし、全能主
から戴いたもので働きをして行きたいという信念があります。これまでも、地上的なものには
一切寄り縋らず、どこまでも全能主を中心に考え、全能主を信頼して来た教会だからこそ、
教会はここまで支えられてきたのです。決して教会は有り余っている訳ではありません。
しかし余裕はなくとも、特別な必要が起こった時には、その都度ちゃんと全能主から与えられて
来ました。この事実を知っているのは、今いる僅かなメンバーだけです。だから、これから教会
が大きくなればなる程、「どこまでも全能主を中心に考え、全能主を信頼して行く」という
考え方をしっかりと持っていなければなりません。そうでないと、この世的な方法、この世的な
判断で物事が動いてしまい、全能主が単なるお飾りになってしまいます。そんなことがあっては
なりません。だから、私たちは毒麦に惑わされず、どこまでも全能主の側から見て考えて行く
べきです。その人が良い麦か毒麦かを判断されるのはイエス様ですので、私たちはただ全能主
の側から物事を見て判断して行くという強い信念を持って行けば良いのです。そうすれば、私たち
は良い麦として、父の御国で太陽のように輝き渡るでしょう。
(結)こういうわけで、これから私たちの教会に毒麦が入って来ることは間違いないことです。
しかし、私たちはその毒麦に影響されないように、今の内に、全能主の側から物事を見るという
考え方を当たり前の事として身につけて行きたいと思います。それは、人間の能力や人の賜物に
目を向けるのではなく、どこまでも全能主に目を向けて行くことです。また、自分を見ると、
自分の限界ばかり見えてきます。しかし、全能主を見上げると、全能主の可能性が見えて来る
でしょう。それが信仰です。どうか、私たちは良い地に蒔かれた種として、全能主に在って百倍
の実を結び、全能主に百倍の恩返しを目指そうではありませんか? |
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