2020年7月5日
『全能主を信頼し、全能主に対して
心溢れる信仰を全うしていく』
コロサイ人への手紙3:5~11
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(起)コロサイ3章5~11節の御言葉から、「私たちが求められている信仰は、どこまでも
全能主を信頼し、全能主に対して心溢れる信仰を全うして行くことだ」ということを、
学んで行きたいと思います。
(承)さて、コロサイ3章5節からの内容を見て行きますと、私たちにとって非常に厳しい
戒めの御言葉が記されています。まず5節を見ますと、「あなた方の地上の体の諸部分、
すなわち、姦淫、不道徳、情欲、下品な欲望、また貪欲を殺してしまいなさい」とありますが、
これらは罪の肉の性質を抱えた人間には、誰の内にもある肉の部分です。それを「殺してしまいな
さい」と言われても、私たちにとっては難しいことです。確かに、3章1~4節までを見ますと、
「あなた方は既に死んでおり、キリストと共に甦らされたのです。ですから、上にあるものを仰ぎ
続けなさい」とあるように、私たちはイエス・キリストの故に律法から解放されました。しかし、
だからといって、イエス・キリストを信じた瞬間に私たちの罪深い肉が取り去られて、「古い人を
その行いと一緒に脱ぎ捨てた」(3章9節)という訳ではありません。これは、実に悲しい現実
です。
(転)では、私たちはこの御言葉をどのように理解したら良いのでしょうか。一つはっきり
言えることは、私たちが抱え込んでいる罪深い肉の性質、即ち魔物は、命を閉じた後キリストに
よって天に挙げて頂く時に初めて取り去られるものであって、この地上で生きている間は決して
なくなるものではありません。なぜなら、キリストの救いは、アオリスト形だからです。アオリス
ト形は過去に起こったことですが、ギリシャ語の時制では時の流れは関係がありませんので、
現在の状況如何に関わらず、私たちは「過去に成されたキリストの贖いの故に、罪赦されている」
という事実があります。しかし、今現在、罪人であることには変わりはありません。しかし、
だからと言って、ここに記されている御言葉、すなわち3:8節「怒り、憤り、恨み、誹り、
口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい」という御言葉を否定することは出来ません。
もしこの御言葉を否定してしまったら、私たちは魔物の心を肯定することになり、放縦な生活を
送って、悪魔に付き従う者になってしまいます。それはあってはならないことです。だから、
魔物を抱え込んでいる罪人にとって、このような御言葉は必要なのです。しかし、私たちがこの
御言葉を受け留めて行くには、戦いが必要です。すなわち、魔物を抱え込んでいるという現実が
ありますので、その事実を受け止めつつ、敢えてそれを容認せず全能主を見上げ、全能主の
御心の中に生きて行こうとする心は必要です。全能主は、その心を見ておられるのです。決して、
「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」という外側の行いを見ておられるのではあり
ません。ここを間違えてはいけません。もし、行いという一面だけで測られてしまったら、
私たちは罪を犯し続けている現実もありますから、私たちは救われる望みが断たれてしまいます。
ところが、この地上にあって全能主が見たいものは、信仰なのです。それは、罪人であるが故に
葛藤を覚えながらも、惨めな姿を覚えつつも、それでも上を見上げて行く信仰の心です。それを
現したのがジョージ・ミュラーさんでした。彼は生まれながらに立派な人物であり、生まれながら
に全能主を信頼している人だったのかというと、そうではありません。彼は自分中心で、嘘を
ついてでも自分の楽しみの為にお金を使おうとする、肉の性質の虜になっていた人です。
しかし、そんな彼が心を変えて、自分の思い通りにせず、どこまでも全能主を見上げ、全能主を
信頼して行くという方向に変えたのです。それはただの外側の行いではなく、彼が全能主を
信頼するという心に変えたが故に、心からそのようにした信仰の行いです。だから、全能主は
わざとらしい外側の行いを求めているのではなく、「どこまでも全能主を信頼する」という所から
出る純粋な信仰の行いを見たいのです。例―イサクを献げるアブラハムの信仰の行い。
(結)こういうわけですから、今回お読みしたコロサイ3章の御言葉は、魔物を抱え込んだ
罪人だからこそ、全能主を見上げ、全能主を信頼するという「心」を使って歩んでいくことを
教えようとした、全能主の厳しい御言葉なのです。もし、キリストを信じた瞬間に魔物の心が
一切取り去られていたら、心を尽くさなくても、形だけで行いを表すことも出来たでしょう。
しかし、そうではなく、魔物がいるからこそ、全能主を見上げ、「どこまでも全能主に頼って
行く」という「心」を動かさなければならないのです。そこには信仰が必要です。全能主はその
信仰を見たいのです。どうか、どこまでも全能主を信頼する心を表し、心溢れる信仰を全うして
行こうではありませんか。
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