クリスチャンの祈りは、絶対主の御心に添う祈りでなければ意味がありません。
なぜなら、祈りは自分の思いを絶対主に押し付けるものではないからです。私たちは、
どこまでも絶対主によって創られた命です。ですから、自分の勝手な言い分をいくら述べ
ても、その祈りが聞かれるかどうかは、分かりません。祈りの応答は絶対主の主権にかかっ
ています。祈る側は自分の気持ちを分かって欲しいと思って、ありったけの感情を言葉に
現して、絶対主に訴えようとします。しかし、祈りを聞いておられる絶対主にとって、
人間の身勝手な祈りは聞きたくないものです。ですから、祈りを無視されることは当然
あることです。逆に絶対主の心を揺さ振る祈りには、絶対主も耳を傾けられ、その人の
祈りに答えてあげたいと思われることでしょう。ですから、私たちはどこまでも自分勝手
な祈りではなくへり下った心によって、絶対主の御心にかなった祈りをすることが、
大事な祈りの基本です。
また、私たちがメッセージを聞いて、語られた勧めを如何にも悟ったが如く「自分に
言い聞かせて祈る」祈りをよく耳にします。しかし、そのような祈りは、一見信仰深い
祈りのように思われますが、メッセージが心に結びつけられていないので、絶対主に
対する応答の祈りではなく、ただ頭に留めて、自分に言い聞かせようとしている言葉で
あって、その祈りは心の発露から出た祈りではないのです。メッセージは、律法ではあり
ません。だから、自分に言い聞かせて守らせようとするものではなく、心の中で同意され
たメッセージとして、実践に移して行くための祈りであるべきです。実践して行く祈りは、
そのメッセージに同意し、そのメッセージの当事者となって絶対主の御心に添った信仰の
行いとなって現れてくるものです。なぜなら、そのメッセージは、自分の心に結びついた
からです。すると、その人の祈りは、メッセージを実践していく前提の祈りになって行く
ので、その祈りが絶対主の心を揺り動かすのです。
このように、メッセージを実践していく祈りとは、自分の命と自分の心は絶対主が創造さ
れたものですから、絶対主の心に合わせて行く祈りとなって行きます。すなわち、「自分
の命も心も主のものである」というへり下った信仰は、絶対主の御心が分かった時点で、
「その通り行います」という素直な応答となって行くでしょう。その素直な応答の祈り
は、絶対主の御心に添う祈りとなりますので、確信をもって大胆な祈りとなります。
このように、私たちの心を、常に絶対主の心に合わせて行く祈りこそが、「絶対主が喜ばれ
る祈り」なのですから、自分勝手な心から、まず絶対主を第一とする信仰へと改めて行きま
しょう。 |
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