人は決してボウフラから涌いて出てくるようなものではありません。ボウフラとは、
蚊の幼虫で、汚水中に棲み、水面で羽化して成虫になります。昔の進化論者は、「生命は
自然発生によって、自発的に涌いてきた」と考えていました。しかし、パスツールは
自然発生の考えを科学的に反証しましたので、命の出所は、創造主を信じない人たちに
とっては、今なお未解決のまま残されている課題です。少なくとも人間の命は偶然に発生
するものではなく、また人の手によって造り出せるものではありません。それならば、
この命の驚くべき仕組みを考え、叡智を持って整え、生かし、生まれさせて下さった方
がいらっしゃらなければ、私たちの命は存在しないはずです。
ということは、私たちの命を創られた方は、私たちの命の全てを握っておられるお方
です。ということは、私たちの命が偶然の命ではありませんので、創造主は一人一人に
生きる目的を持って創って下さったということです。その生きていく目的は、私たちに
とって、はっきりと知る必要があります。それを知る手立てが聖書にあります。
聖書には、創造主が私たちを創られたこと、そしてこんな罪人でも、絶対主は「罪人を
哀れんで救うために、全ての人の贖いの代価としてキリストを立てられたこと」がはっ
きり記されています。ですから、「キリストが全ての人に代わって死んだのは、生きて
いる人々が、二度と自分のために生きるのではなく、彼らのために死んで甦られたお方
のために生きて行くことです」(Uコリント5:15)とあります。
すなわち、クリスチャン一人一人は、自分のために生きていくのではなく、キリスト
のために生きて行くということです。それは、「キリストのためなら、何でもやります」
という生き方です。そして、具体的には、現在はとりあえず、召されたままの状態に
留まりながら、その中で絶対主から「あれをしてくれ、これをしてくれ」と言われたら、
「はい分かりました、やります。」と答えていくことです。その時、自分の苦手なこと
を「してくれ」と言われることもあるかも知れません。しかし、絶対主から「やって
くれ」と言われたのなら、そのための力量も、必要な資金も、すべて絶対主が与えて
下さいますから「わかりました」と、絶対主の意向に従うことです。なぜなら、私たち
はどこまでも被造物であり、しかも罪人の人間ですから、自分で何でも出来るオール
マイティーではありません。当然限界があります。しかし、絶対主は全能主です。
そこを忘れてはいけません。絶対主は全てご存じの中で、私たちを用いようとされ、
御自身の集大成を実現したいのです。だから、私たちは、全能主の助けがあるという
前提の中で、「何でもやらせて下さい。言われた通りやります」と答えていくのです。
この忠実な心を持って絶対主のために生きていくのが、クリスチャンに与えられた命で
あり目的なのです。また、すでに主の召命の中で具体的に働いている方々もいらっしゃる
でしょう。そういう方々は、命閉じる時まで、その召しを全うすることが命を頂いた
目的です。これは、自分の目的のためではありません。どこまでも、絶対主の意向に
あった目的のために、自分の命を懸けていくのがクリスチャンの生きる生き方です。
与えられた命が、永遠に繋がる命となるために、自分の生涯を絶対主の目的のために
大胆に用い出しましょう。
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