キリストの救いを信じた時の信仰は、ただ救い主の存在を信じるところから始まりますが、
成長したクリスチャンの信仰のあり方は、絶対主と聖書を無条件に信じていくこと
から始まって行きます。それは、天にいる絶対主とイエスキリストに信頼することが
救いの原点だからです。
しかしながら、地上にいる間は、この生き方は仙人のような生き方です。なぜなら、
キリストの救いが現実のものとしてこの身に味わうのは、御国にあげられた時に実現し、
この地上にいる時は、命閉じる時までは罪深い肉の体を持ちながら、ただの肉の人として
生き続けなければならないからです。なぜなら、キリストの救いは、すべてアオリスト形
で語られている真理だからです。このアオリスト形とは、現在の状態が如何なる状態で
あっても、すでに過去のこととして記されている時制を表すものです。たとえば、
「キリストと共に死んだ」と言う時、たとえ今死んでいなくても、現在の状況如何に
関わらず、「すでにキリストと共に死んだ者」と見なされているのが、聖書の示す真理
です。それは、キリストの救いが、過去に起こった実際の贖いの事実ですので、今現在
罪から解放されていなくても、キリストのお陰で 解放されている事実をそのまま信じる
のが、成長したクリスチャンの信じ方です。はっきり言えば、キリストの救いを信じた
からといって、この地上ではこの罪深い肉の性質がなくなってしまうという事ではあり
ません。ですから、自分が聖人になったと勘違いしてはいけません。ということは、
逆に、私たちの状態がいくら罪深いままであったとしても、救われていないのではあり
ません。ですから、クリスチャンの地上の生き方は、ガラテヤ書にあるように、「私は
キリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリスト
が私の中に生きておられるのです。しかし、私が今肉体にあって生きているのは、私を
愛し私のために御自身を献げられた、絶対主の御子を信じる信仰によって生きているの
です。」(ガラテヤ2:20)とあるように、福音には、まず「私はキリストと共に
十字架につけられました」即ち「罪人の体は死んだ」という一面と、また「私が今肉体
にあって生きている」即ち、「罪の体をもって、現実は地上で生きている」という
二面性があるのです。この「十字架につけられた」というのも、アオリスト形で書かれ
ていますので、クリスチャンの信仰の在り方は、今罪ある体であっても、「絶対主の御子
を信じ仰ぐことによって生きる」というのが正しいのです。言い換えれば、キリストに
あって救われたクリスチャンは、この地上で生きている間は、信じる前と同じ肉の姿を
持っていても、心は救われた者として父なる絶対主とキリストを絶対的なお方として
信じ、その絶対主の言葉である聖書を無条件に信じ続けて行く事が、救われたクリス
チャンの正しい信仰の歩み方なのです。ここで、無条件に信じるとは、ジョージ・
ミラーさんのように、「孤児の父は絶対主である」と書かれた聖書の御言葉に疑問を
挟まず、そのまま信じて「絶対主が孤児の父だから絶対主に養ってもらえる」と信じて、
実際に孤児を集めて孤児を養い育てる行動を取って行ったことを意味します。その時、
実際にはミラー師は、自分の家族を養っていくことさえ精一杯の生活でした。しかし、
聖書の御言葉をそのまま無条件に信じて行動に移したのです。この信じる姿勢が成長した
クリスチャンの絶対主と聖書を無条件に信じていく地上での生き方です。これは、狂信的
と言われるかもしれませんが、キリストを信じた者は、この世では死んだ者ですから、
この世の常識的な考えではなく、天におられる絶対主を信じた考え方で生きていくのが、
キリストを信じたクリスチャンの生き方です。地上にあってもこの生き方が通用するの
か?それは、信仰によって実際にやってみることです。やらなければ信じないことに
なります。ミラー師は実際にやって1万人以上の孤児を、牧師をしながら育てて行きま
した。それは、実際に絶対主が父としてその生活費の全てを与え続けて下さったからで
す。絶対主は、現実に信じ続けた者に答えて下さったのです。ですからキリストを信じる
とは、この世でも、天におられる絶対主と聖書を真剣真面で無条件に信じ続け
て行くことです。信仰にはこの信じる勇気が必要です。なぜなら、地上にありながら、
天上いる絶対主とイエス様を信じた生き方をして行くことだからです。これが、成長
したクリスチャンの信じる生き方です。
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