2019年9月22日
『反抗心を出すことを止める』
マタイの福音書12:1~14
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(起)マタイ12章1~14節の御言葉から、「反抗、反発の精神を砕いて、全能主に従って
行くという心の決め事にチャレンジして、全能主と繋がる者となること」を学んで行きたいと
思います。
(承)さて、ある安息日に、イエス様が麦畑の中を通った時、弟子たちは空腹を覚えていたの
で、麦の穂を摘んで食べ始めました。すると、それを見ていたパリサイ人たちが、「あなたの
弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」と非難して来たのです。しかし、
イエス様は、「ダビデは、全能主の家に入って、祭司たち以外食べてはならない供えのパンを
食べたのです」と言われました。第Ⅰサムエル21:1~6を見ますと、「祭司アヒメレクが
ダビデに供えのパンを与えた」という記事があります。本来ならば、「ヤハウェに捧げられた
物は、祭司以外食べてはならないのですが、祭司がダビデの若者達に与えた」と言う記事を
イエス様は取り上げ、その記事を引用してパリサイ人たちに語られ、「わたしは安息日の主だ」
と言われて、「わたし自身が安息日を与えた主人なのだから、わたしは例外を認めることが
できる立場にある」ということを明らかにされました。
その後、イエス様はそこを去り会堂に入られると、片手のなえた男が座っていたので、人々
は、イエス様が、「安息日に病人を癒すのか」じっと見ていました。すると、イエス様は、
「あなた方のうち、もし自分の羊が安息日に穴の中に落ちこんだら、引き上げてやらないので
しょうか」と言われ、「安息日に良い事をするのは、正しいことです」と言って、片手のなえた
男を癒されました。しかし、パリサイ人たちは、このイエス様の言葉を聞いても理解せず、
自分たちの考え方を改めずに聖書に基づいて語っておられるイエス様に対して尚反発し、最終的
にイエス様を殺そうと相談を始めたのです。
(転) 実は、パリサイ人たちが持っていた反発の心は、私たちにも同じようにある感情です。
私たちは、絶対なるお方の存在を知らされましたが、それなのに「全能主に全面的に信頼し、
この方を第一として行く」という忠義の心を持っているかと言うと、そうではありません。
なぜなら、私たちは、「自分の考え、自分の思いを主張することは当然の権利だ」と思っている
からです。これは、言葉を換えると反抗心です。この反抗心はどこから始まったのでしょうか。
それは、ルシファーからです。ルシファーは全能主に反抗し、その反抗する心をエバに持たせる
ために巧みに誘惑し、さらにアダムにも植え付けました。そこから、今日のすべての人間に反抗
心の罪が入り、老若男女にこの反抗心という罪が根強く存在して来たのです。しかし、もし
クリスチャンが、この反抗心の心を当然の権利のように主張するなら、全能主を第一として生き
て行くことは絶対にできません。なぜなら、反抗心は自分が正しいと思うとこから出てくるから
です。しかし、人間は罪人です。だから、私たちはその反抗心を砕く必要があります。
すなわち、「もう反抗心を出さん」と決めることです。私たちは、自分自身の内の反抗心を
消してしまうことはできません。しかし、「反抗心を出すのを止める」ことは自分の意思で出来
ます。私たちは、それを勇気を持って決断したところから、全能主を第一にして従って行く
生き方が始まるのです。だから、まずは目に見える人間に対してそれをして行きましょう。
目に見えるものに従うことができなければ、目に見えないものに従うことはできないからです。
親や兄弟、会社の上司や学校の先生など、自分より年上の人には、反抗心を砕いて従って行く
対象です。しかし、そういう目上の人々の中には、いつも威張っていて、皮肉を言って来るよう
な人もいます。そういう人には、つい反抗心が出てしまいます。しかし、そういう反抗心を砕く
ことが難しいと思う相手だからこそ、その人に対して、反抗心を砕く事の意味があります。
それが、全能主を第一にして従って行こうとするクリスチャンの決断の時であり、チャンスでも
あります。
(結) 私たちは、今まで30年間、全能主を第一にして行くことを学んで来ました。しかし、
その道を歩み始めることが、なかなか出来なかったのは何故かというと、ルシファーから来た
生まれながらにあった反抗心があったからです。私たちは、これに気づいて勝利しなければなり
ません。そうでなければ、本当の意味で全能主に従うことができません。パリサイ人や律法学者
たちのように、たとえ相手の言っていることが理に適っていて正しいと分かっても、なお反発・
反抗して行くことを当たり前のように続けていたら、最後の最後まで全能主に繋がらずに
終わってしまいます。
どうか、一人一人がこの反抗心を砕いて全能主に従うために、「反抗心を砕くところから
始まるのだ」と悟って行きましょう。このチャレンジは、自分の信仰の心の決め事として始め
出すことですから、価値ある決断です。クリスチャンが「全能主と繋がる者となりたい」と願う
なら、まずこのチャレンジは登竜門ですから、勇気あるチャレンジに望んで行きましょう。 |
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