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2019年7月21日


反抗心を止め、心を開いて悔いし砕かれた心を持つ

第Ⅰコリント5:1~8

(起)第Ⅰコリント5章4~5節の御言葉から、「自分の罪を指摘されて、その圧力をはね()ける

反抗心を表すことを止め、むしろ心を開いて、悔いし砕かれた心を持つこと」を学んで行き

たいと思います。

(承)さて、当時のコリントのギリシャの町々には、非常に廃退(はいたい)的な不道徳な習慣が

蔓延(まんえん)していました。それが信じたクリスチャンの中にも入り込んでいたので、コリント

の教会ではいろいろな問題が起こっていました。(1節) そこで、パウロは、「あなた方は

高ぶって、そのような行いをしている者を、あなた方の中から取り除こうと、悲しむことも

しませんでした」(2節)と、彼らの罪を指摘しました。そして、「私はそういう者をすでに

裁きました。すなわち、イエス・キリストの権威の下で、そのような者の肉体を滅ぼすため

に、私は彼らをサタンに引き渡しました」(3~4節)と書き送ったのです。すなわち、

パウロは自分の罪を悔いようとしない者たちに対して、「お前たちをサタンに引き渡した」と

宣言したのです。しかし、次を見ると、彼らをサタンに引き渡したのは、「その霊が主イエス

の日に救われるためです」(5節)とあります。サタンに引き渡されてしまった者、すなわち

自分の罪を悔いずに全能主に反逆した者が、主イエスの日に救われることがあり得るの

でしょうか。確かに、サタンに引き渡された者が、自分の罪に対して最後まで悔いることを

せず、自分が罪人であることを頑なに認めなければ、主イエスの日に救われることはあり

得ません。しかし、もしその人が自分の罪に対して心から悔いて、「自分はどうにもならない

罪人だ」と認めたなら、救われる可能性があったのです。なぜなら、全能主は、自分の罪を

深く認めて悔いている者のために御子イエス様をこの地上に遣わし、人間の罪の問題を解決

するために、御子イエス様に「お前が代わりに人間の罪の償いをして来い」と命じて下さった

からです。そのイエス・キリストの贖いがあるが故に、罪人でも救われて天に入れて頂く道が

開かれたのです。だから、パウロは、なかなか自分の罪を認めて悔いることができない者に

対して、「『自分は恐ろしい罪を犯し、取り返しのつかないことをしてしまった。自分はどう

にもならない罪人だ』ということにまず気付いてほしい」と願って、その者をサタンに引き

渡したのです。その苦しみを通して、もしその人が自分の罪に気付き、「自分が間違って

いた」と悔いる心を持つことができたなら、その人は主イエスの日に救われる 可能性があっ

たのです。


(転)これは、私たちにも言えることです。私たちは、罪を指摘されて怒られると、その圧力

に耐えられず、瞬間にガードを張ってしまいます。すなわち、心にガードを張って、怒られて

いる言葉を頭だけで聞き、心の中に入れようとしないのです。なぜなら、心の中に入れると、

「自分は悔いてもダメだ。いくら悔いて謝っても変らない」と開き直ってしまうからです。

しかも、そこにサタンが働いて、「お前はあれだけの罪を犯したのだから、いくら悔いたって

赦されるわけがないだろう。帰れる道があると思うな」と畳みかけてきます。私たちはその声

を聞くと、「確かにその通りだ。自分なんか今更謝ってもダメだ」という意識が強くなり、

心を砕いて悔いることができなくなってしまうのです。すると、
結局その人は自分が開いた

地獄の門の中にサタンと共に落ち込んで行く
ことになります。しかし、怒られてその圧力を

受けた時に、自分を守ろうとしていた心を砕いて、「自分が罪を犯し、取り返しのつかない

ことをしてしまったのだ」と認め、「自分がやったことを他人の所為にせず、自分が全能主

の裁きに服するのは当たり前だ」
と受け留めたなら、全能主は「その悔いた心を軽んじない」

と言われ、平安を与えて下さいます。
なぜなら、キリストの死は、「自分の罪の報いは自分が

受けなくてはならないものです。自分がしたことですから、自分が恥をかき、惨めな経験を

受けるのは私です」と認める者のために、その罪の報いを代わりに負って下さったことだから

です。

(結)こういうわけで、自分の罪に悔いず、地獄の門を開いてその中に落ち込んで行く者

となるのか、或いはキリストの御蔭で天国の門を通って御国に入れて頂ける者となるのか、

その分かれ目は何か、といいますと、
「自分が罪を指摘され、怒られて圧力を受けた時に、

心を閉じずに『全部自分の責任です』と受け留めるかどうか」
にかかっています。私たちは、

この地上にいる限りは罪を犯してしまいます。しかし、そういう人間の罪の償いを、全能主は

イエス様にさせて下さったのですから、
もし罪を犯してしまった時には、全能主の前に心を

開き、へりくだって悔いる心を持つことは、最低限罪人にとって必要なこと
です。どうか、

この真理に目覚め、罪を指摘されて、自分が受ける圧力をはね除ける反抗心を使うのはもう

止めましょう。むしろ、心を開き、悔いし砕かれた心を持つのです。それが全能主と繋がる

入口です。このクリスチャンの歩みを始め出しましょう。


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