2019年5月5日
『全能主にあって物事を考えていく』
マルコの福音書13:3~27
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(起)マルコの福音書13章の世の終わりに起こる前兆から、「心を天に向けて、全能主にあって
物事を考えて行く歩み」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、マルコの福音書13章には、世の終わりに起こる出来事について時系列順に記され
ています。まず3節~8節まで読んでいきますと、そこには産みの苦しみの初めの出来事として
記されており、14節からはいよいよ「荒らす憎むべきもの(666)」の出現について記されて
います。彼は、立ってはならない所(神殿)に立ち、自分自身を神として、この世界を支配します。
このようなことが起こったら、私たちは「ついにこの世は終わるのだ」と覚悟しなければなりません。
そして、19節を見ますと、「その日には、全能主が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、
かつてなく、また今後もないような患難が起こる」とあります。この歴史上では、過去に第一次世界
大戦、第二次世界大戦という大きな戦争が起こりました。その当時は、まさに「世の終わり」と
言われていたことでしょう。しかし、これから起こってくる患難は、そのような過去の大戦争とは
比べものにならない大きな患難だと言われています。そして、20節を見ますと、「もし主が、
その期間を縮めて下さらないなら、救われる者は一人もいません。しかし、主が選ばれ、選び取った
者たちの故に、その期間を縮めて下さいます」とあります。「選ばれた者たち」とは「聖徒たち」の
ことですので、私たちクリスチャンは間違いなくこの患難時代を通ります。また、太陽は暗くなり、
月はその光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。(24、25節)そして、
それらの出来事がすべて終わった患難時代の一番最後に、人の子が偉大な軍勢を携えてこの地上に
おいでになり、その時点でまだ生き残っているクリスチャンたちは、携挙されます(26、27節)。
クリスチャンが携挙に預かることは有り難いことですが、このような恐ろしい時代を最後まで通って
行って携挙されるより、666が出現したときに証を残して、主にあって死ぬ者の方が幸いである
(黙示録14:13)とありますので、逃げまくって携挙されるよりは、殉教した方が幸いである
筈です(黙20:4)。私たちは、携挙を安易に考えてはいけないのです。これらは、近い将来に
現実に味わうのです。それを、私たちはいま明確に教えられています。
(転) では、この真理を教えられた私たちは、残された時間をどのように生きて行くべきで
しょうか。私たちは、地上に心を向けて、地上に自分の立ち位置を探し求めても何の意味もありま
せん。ただ信仰の一本道を通すかどうかにかかっています。なぜなら全能主は、どんなときも全能主
を仰ぎ見て、「全能主にあって生きて行く道しか自分にはない」という本気の心を持って生きている
者かどうかを上から見極めておられるからです。そして、そのような者を選んで「聖なる都」に
入れようと考えておられるのです。それなのに、私たちがいつまでも自分中心な物の考えをして、
「自分はそんなに霊的な力はないから」とか、「自分は弱い人間だから」と言って、どこまでも
地上的な物の考え方に留まり、自分の立ち位置をこの地上に置き、地上の人に受け入れられようと
する生き方は間違っています。そんなことのためにエネルギーを使っているようでは、全能主から
「わたしはお前を知らない」と言われてしまいます。先日もお話ししましたが、私たちはただ
「イエス様を信じました」と言うことだけで、御国に繋がる保証だと思ったら大間違いです。信じた
なら、信じた者としての行動をとり、その心を表さなければなりません。「イエス様を信じました」
と言いながら、いつも自分自身の性格や能力の無さに怯え、全能主の方に心を向けようとしない者は、
結局は自分の都合で生きて行くのですから、全能主から「勝手にしなさい」と言われてしまいます。
そのような者は全能主のお考えに合いませんので、聖なる都の一員として用いられるようなことも
なく、終わってしまうでしょう。
(結) こういうわけですから、どうか今こそ目覚めてください。私たちの生きる場所は地上には
ありません。私たちの命は全能主に創られた命ですから、全能主にあって生きて行く以外に道はあり
ません。自分自身の人生の焦点を合わせるところは、全能主です。そこに私たちの意識がなければ、
私たちは信仰の一本道を通せません。また、患難時代を「信仰の勝利者」として通って行くことは
できません。今こそ、私たちの心を定めるときです。もう、地上の人間として自分がどうあるべきか
を考えている時ではありません。むしろ、天に国籍を持つ者として、自分はどうあるべきか、また
聖なる都に繋がる者として、自分はどうあるべきか、全能主によって命を造られた者として、自分は
どうあるべきかを考えて行くべきです。今こそ、自分の物の見方、考え方をガラッと変えて、
地上の者としてではなく、天に心を向けた者として、すべて全能主にあって物事を考えて行く歩み
を始め出そうではありませんか。 |
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