2019年3月10日
(起)ヤコブ2章20節の「行いを伴わない信仰の空しさを知りたいのですか」という御言葉から、
「私たちは全能主を信じる者として、行いの伴った信仰を表して行く」ことを学んで行きたいと
思います。
(承) さて、ここに書かれている内容は、一言で言うならば、「行いのない信仰は意味がない」
ということです。14節を見ますと、「自分には主を信じる心があると言っても、もし行いが
なかったら何の役に立つのでしょうか」とあります。確かに、「私は全能主を信じています。
私にとって全能主が全てです」と口では言っていながら、自分の考えに拘り、自分の思いに
留まって生きているようでは、その人は全能主を信じているとは言えません。
また、あるクリスチャンは、「教会に行っていないけど、自分はイエス様を信じているから大丈夫
です」と、開き直っている自称クリスチャンもたくさんいます。しかし、聖書には「行いのない信仰
は死んだものだ」とありますから、信じているつもりだけでは、全能主の心と繋がりません。
だから、いくら口先だけで「信じている」と言っても、信仰の行いがなければ、全能主はその人の
信仰告白を意味のないものとされます。なぜなら、「信じている」と言うだけなら誰でも言える
からです。悪霊でさえ、「全能主はただひとりである」と信じています(19節)。ですから、
行いを伴わない信仰は実に空しく、全能主に繋がるものではありません(20節)。もし、私たちが
「全能主を信じている」と言うのなら、その信仰は、当然信じる者としての行いが表に現れて
出てくるものです。
(転) では、私たちは全能主の前にどのような行いを表して行けば良いのでしょうか。
それは、アブラハムがイサクを捧げたときのように、全能主が「こうしなさい」と言われたことに
対して、「分かりました。全能主が言われるのなら、何が何でもやります」と、積極的に全能主の
心に合わせていく心を、行動で示して行くことです。私たちは長い間「自分の心は自分のもの」と
思っていましたから、決断は自分の自由意志の中で、自分の損得を基に計算して判断していました。
しかし、「身体も心も全能主が創られたものだ」ということが分かったなら、自分の勝手な
判断では通用しなくなります。 確かに、自分の命も自分の心も、全てが自分で造ったものではあり
ません。だから、「この命と心は自分のものではなく、創造した全能主のもの」です。命が全能主
のものであるなら、全能主の考え通りに心を遣って行かなければなりません。これが道理です。
そこで、もし全能主の指示に対して「自分の気持ちが付いて行きませんから、できません」と
言い訳をするなら、自分の命を自分勝手に使うことになります。すると、私たちと全能主とは関係
なくなり、信仰も通用しなくなります。しかし、私たちの心は全能主のものなのですから、私たち
の心を全能主の為に使うのが一番価値あることです。すなわち、全能主の御心に合わせて心を使う
のです。もし、この真理を理解しても、感情が付いていかないと言って、尚自分のために心を使い、
全能主の御心に従わないのなら、私たちは全能主から見放され、「お前はどこまでも自分の思い
通りに生きていたのだから、わたしは、お前を知らない」と言われてしまいます。
これでは、本も子もなくなります。ですから、私たちは今こそ、「全能主の御心に
併せて、大胆に聞き従う」という、行いを伴った信仰を始め出さなければなりません。それは、
先程も申し上げたように、全能主が「こうしなさい」と言われたことに対して、「分かりました。
何が何でもやります」と応え、具体的な行動によって表して行くことです。確かに、私たちの
心の内には魔物が住んでおり、弱気で臆病な心は消えていません。しかし、だからといって、
「自分は臆病な弱い人間ですから、できません」と言って弱気な心でいいわけではありません。
たとえ臆病な心があったとしても、全能主を信じているのですから、信じている者として全能主を
見上げ、全能主に信頼してやって行くのです。これが全能主を信じる者の生き方です。たとえ、
心が付いていかなくても、自分の自由意志で決断して、従う道を選択する所に信仰の表れが出て
きます。全能主を信じる者の生き方というのは、決して自分の意のまま歩むことではありません。
また、道徳的に正しい人間になることが、信仰の行いではありません。もし義人になる力があれば、
イエス様が十字架にかかって死なれる必要もありませんでした。ですから、信仰の行いは、全能主に
自分を明け渡して、従う行動を起こすことです。
(結)こういうわけで、人が義とされるのは、主を信じることだけではなく、信仰による行いが
あって、初めて信じた者と認められるのです。主を信じると言うことだけなら、悪霊どもでさえ
全能主を信じておののいています。私たちは、そんなレベルの低いところに留まっているわけには
いきません。私たちは、行いの伴わない信仰の空しさから立ち上がり、全能主を信じる者として、
行いの伴った積極的な信仰を表して行こうではありませんか。
|
|