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2019年2月17日
全能主の前に完全にお手上げ

第Ⅰペテロ2:11~17


(起)第Ⅰペテロ2章12節の御言葉から、「出来る自分であり続けたい」という思いは、

ルシファーから来た呪いのゴミだ、ということを学び「全能主の前に完全にお手上げし、へり

くだった心で全能主に使っていただく」ということを学びたいと思います。

(承)さて、12節を見ますと、「あなた方は、異邦人の中にあって、立派な生き方を示しなさい」

と、勧めがあります。このような、「立派な生き方をするように」とか、「良き行いをするように」

という勧めは、聖書の中にはたくさん出てきます。ですから、誰でも聖書を読めば、「努力して、

立派な振る舞いをしていくようにという方向に向かって行くべきだ」と思ってしまいます。

しかし、実際問題、
聖書に書いてある通りのことをして行く力は、私たちにはありません。

確かに、「聖書に書いてあるとおりの立派な生き方をしたい」という気持ちはいつもあります。

しかし、気持ちはあっても、実際にはそれをする力がないというのが私たちの現実です。それは、

単に「出来ません」と言うことではなく、
「自分の中には、聖書が求めているような清い心はあり

ません」ということ
です。だから、私たちの中から良きものは何も出てきません。むしろ、心の中

から出てくるものは罪だけ
です。ですから、「立派な生き方」や「良き行い」を求められたなら、

私たちは完全にお手上げです
と、正直に遜るべきです。

(転) ところが、私たちはそのような弱さを抱えながらも、「自分が何とかしなければならない」

とか、「自分はなんとか出来る者になって、人に認められたい」という野心が心の片隅にあるのです。

あるいは、それが自分の心の中の大切な一部分(プライド)になっている人も多いのです。

例えば、これまでの歩みの中で、多少でも出来の良さを褒められてきた人は、褒められる快感を

知っています。ですから、「褒められる自分であり続けたい」という思いを持っており、逆に、

たとえ怒られてばかりいて、出来が悪く馬鹿にされてきた者でも、馬鹿にされてきたが故に、

「自分は出来る者になって見返えしてやりたい。人から認められる者になりたい」という強い願望も

あります。しかし、その「出来る自分であり続けたい」という思いや、「褒められ続けたい」という

願望は、実はルシファーが持っていたものと同じ罪の呪いなのです。どういうことかと申しますと、

彼はもともと「全きものの典型で、知恵に満ち、美の極みでした。」(エゼキエル書28:12)

その状態は、いわゆる「出来のいい状態」です。彼は、その「全きものの典型である」その誇りを

ずっと持ち続けて行きたかったのです。だから、彼は全能主に対して「へりくだることをせず、

むしろ自分自身の能力を誇り、傲慢になって、全能者のようになりたい」という傲慢の故に地に

落とされたのです。彼の能力は、自分の努力で勝ち取ったものではなく、ただ、全能主によって

与えられていたものに過ぎません。それなのに、その能力の故に傲慢になってしまったのです。

彼は、その能力に思い上がって遜ることもせず、全能主から叩かれ、地に落とされました。

本来ならそこで悔い改めてへりくだるべきですが、彼は傲慢な状態のまま、決して悔い改めること

をせず、今尚、
「自分はいと高き方のようになろう」という反キリストの心を持っているのです。

すなわち、
「出来る自分であり続けようとしている」のです。それは私たちの心の片隅にある思いと

同じです。罪人の私たちも、褒められることを求め続けています。その思いの出所は、ルシファーの

思いから出た同じものです。それが分かったら、私たちはこの色気は、ルシファーの色気であって、

全能主の前で、ただ呪いでしかないゴミだと気づくべきです。呪いであるなら、この幻想は捨て去る

べきです。しかし、私たちは「お手上げしたら、人生は終わりだ」とルシファーの声に脅かされて

います。この声に決して騙されてはいけません。むしろ正直に、「自分は何もありません。

あるのは罪だけです。いくら努力してもイエス様が言われたことをして行く能力は在りません」と、

下手に出るべきです。実は、イエス様はそのことを気づかせるために、ユダヤ人に語られたのです。

ならば、私たちは遜った心を持って、「私には何も出来ません。どうか、全能主のお心を添える

ように、一つでも二つでも出来るようにお力を与えて下さい」と言うべきです。そのとき初めて

御霊の賜物が注がれ、私たちは力を受けて、全能主の御心を行うことが出来るようになるのです。

(結) こういうわけで、私たちは元々罪の中に生まれた者ですから、その現実をそのまま認める

べきです。「何とか気張って自分の正しさを表して行かなければならない」と思う必要はあり

ません。これからは全能主から力をいただいて、一つ一つやらせていただくのです。それでも、

私たちはその力を自分自身の栄光を誇るためではありません。それは、ただ、全能主の栄光のため

にやらせて頂くのです。ならば、「自分のような者が」と卑屈になるのではなく、むしろ、
「自分の

ような者でも使って頂けるのなら、何でもやります」と、積極的な気持ちを表して行くのは良い

こと
です。どうか、全能主の前に完全にお手上げし、へりくだった心を以て、全能主に使って頂く者

とされて行きましょう。


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