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2019年11月17日

空っぽの器だと認めて、御霊の力を求めて行く

使徒の働き15章1~29節


(起)使徒15章28節の御言葉から、「私たちは、キリストの(あがな)いの故に『罪を問わない』

と言って下さる絶対主に、罪人の自分を認めて(へりくだ)り、空っぽの器だと認めて、御霊の力を

求めて行く」ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、使徒行伝15章には、エルサレム会議について記されています。ある日、ユダヤ

からアンテオケに下って来た者たちが、「モーセの律法を守らなければ救われない」と言い

始め、パウロやバルナバたちと論争を起こしました。ところが、実際には、「モーセの律法を

きちんと守ることのできたユダヤ人は一人もいませんでした。」また、「絶対主が求めておら

れる人間像になりたい」という願いを持ったとしても、罪人にはモーセの律法を守って行く

だけの能力がなく、ユダヤ人を始め誰一人として、絶対主が求めておられるレベルには到達でき

なかったのです。そこで、パウロとバルナバはエルサレムに送られ、使徒たちを交えて律法に

関する問題を論じるために、「エルサレム会議」が行われました。そこで、ペテロは、異邦人

コルネリオの件を踏まえて、「私たち自身も負いきれなかった律法を、何故異邦人に負わせる

のか。私たちは、イエス・キリストを信じることによって救われ、異邦人も同じ方法で救われた

のだ」と発言したのです。そこで、エルサレム会議を通して最終的に決議された内容が、使徒

15:28~29にあります。
「聖霊と私たちは、あなた方に次の必要な事の他は、それ以上

何一つ負担を負わせないことが、最善と考えました」
とあるように、異邦人に律法を負わせる

のではなく、むしろ
「負担を負わせない」ということが、決議文に載せられたのです。これに

よって、アンテオケ教会の人々は大きな慰めを得ました。

(転)このことは、今日の私たちにとっても、非常に感謝なことです。私たちは生まれながら

に罪を持っており、当然の如く完全無欠な人間ではありません。罪を犯し、その罪を指摘された

時、「本当にその通りです」と認めることはできても、その罪を消し去り、肉を変えることは

できません。生まれながらに弱さを抱え、臆病で、それでいてプライドだけは人一倍高く、

始末の悪い身勝手な性質を持ち合わせているのが現実です。それは、キリストの救いを頂いて

からでも同じです。なぜなら、キリストの救いは、アオリスト形だからです。アオリスト形と

は、現在の本人の状態如何に関わらず、過去になされた事実を表す時制のことです。だから、

この救いは、「私たちがこの地上で良い事をしたから救われる」というものではなく、「過去に

起こったキリストの贖いの事実の故に救われる」というものでした。だから、あくまでも私たち

は罪人のままで、この地上を歩み、罪人のままで死んで行きます。しかし、キリストの贖いが

あるが故に、裁かれずに御国に入れて頂けるのです。これが、私たちが頂いたキリストの救い

です。それが分かったら、私たちが、たとえ救われたクリスチャンであっても、自分を良く

見せかけようと見栄を張るべきではありません。この地上にあっては、私たちの肉の性質は何

一つ変わりませんので、罪を犯してしまいます。しかし、罪を犯してしまったら、その罪を

棚上げにして逃げ出すのではなく、きちんと責任を取り、その罪を一生背負って行くのです。

そうすれば、絶対主は、「それ以上のことは問わない。」「負担を負わせない。」と言って

下さるのです。絶対主がそのように言って下さるお方であるならば、私たちが
「その方に対して

心を開き、遜って従って行きたい」
と思うのは、救われた者としての、もう一面の真理です。

しかし、絶対主のために働いて行くためには、今までのような弱いままでは役に立ちません。

かといって、私たち自身には、弱い自分を、強い自分に変えて行くだけの力もありません。

だから、私たちは聖霊の力を求めたのです。私たちも、「使徒たちのように絶対主の働きを

させて頂きたい」し、「信じる人たちが毎日加えられるような教会でありたい」と願いました。

また、「しるしと不思議を行わせて頂き、自分たちの家族や、疑いを持っている人たちに、

力強く福音を伝えて行きたい」という願いもあります。そのためには、聖霊の力と賜物が絶対

に必要なのです。

(結)ですから、私たちはどこまでも絶対主の前に遜り、主が直接約束して下さったわざを

待ちましょう。来る所まで来て、今更うしろを振り返ることはできません。その中で、少なく

とも今の私たちにできることは、反発の精神、反抗する心を砕いて行くことです。そして、自分

自身の過ちを素直に認め、その責任を取って、遜って行くことです。また、私たちは「こうしま

す、ああします」と、行いを通して認めて貰うのでもありません。それは、「律法を守って

行きます」と言っているのと同じです。私たちは、モーセの律法では義とされることの出来な

かった罪人なのですから、むしろ自分自身の罪をそのまま認め、その罪の責任を取って

行くのです。そうすれば、
絶対主はイエス様の贖いの故に、「私たちの罪を問わない」と言って

下さるのですから、私たちは罪人の弱さを持っている者でも、遜って絶対主に近づいて行くこと

ができます。
どうか、罪人の自分を認めて遜り、空っぽの器だと認めて、御霊の力を頂き、

キリストのためにこの命を使って行こうではありませんか。


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