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2019年10月6日
反発する心を折って従う

マタイの福音書21:28~32


(起)マタイ21章28~32節から、「ぶどう園で二人の息子に働くことを願った父親」の

譬えから、
「嫌だと考えた肉の心を折り、父親の願いに応えた弟息子」の心を学び、「どこま

でも全能主を第一にして従って行く道に踏み出すこと」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ある日、ぶどう園で働くように願った父親は、二人の息子に「ぶどう園に行って

働いてくれ」と頼みました。すると、兄は「行きます」と言いながら行きませんでした。

おそらく、彼の本音の中には「行きたくない」という肉の思いが強くあったからでしょう。

では、弟はどうだったのでしょうか。彼の心の中にも兄と同じように「嫌だ」と言う思いが

ありました。ですから、彼は「嫌です」とはっきり拒否したのです。しかし、弟は、その後から

心を変えてぶどう園に行きました。それは、明らかに自分の「嫌だ」という思いを砕き、心を

変えて父の願いに従ったのです。ということは、「嫌だ」という肉の思いを、自分の自由意志

で折り、父親に従ったことがこの教えの焦点です。この心の動かし方を、イエス様は尊んで

「心を入れ換える」その心を教えようとされたのです。なぜなら、人間は生まれながらに罪人

ですから、素直に従う心を持ち合わせてはいません。ですから、反発する心を折って従うこと

は、自分の自由意志を働かさなければ出てきません。だから、「心を折って考えを変える」こと

は大切なことです。これは、 私たちが信仰の心を表して主に従うためには、とっても大切な

自由意志です。


(転)では、この譬えを私たち自身に当てはめて考えて行きましょう。私たちは、「全能主を

第一にして従って行く」という信仰の機微(きび)を学んできました。しかしながら、その学んだこと

が一つも行動に表れて来ません。それは何故でしょうか?心の中に肉の思いを抱え込み、それ

を折るということを経験してこなかったからです。本来ならば、「肉の思いを折る」ということ

は、子供の頃から親に叱られることによって教えられて学ぶものです。ところが、私たちはそれ

を学ばずに、自分の思いを通す生き方を当たり前のようにして来ました。ですから、肉の思いを

折るということを知らずに大人になってしまったのです。すると、大人になった今でも、「嫌な

ものは嫌」、「出来ないものは出来ない」という肉の思いが、自分の当たり前の権利のように

思い、自分の思いに立つ事が習慣的になり、おかしいと感じることも無くなっているのです。

こんな状態でいくら全能主の御心を学んだとしても、心の中に結びつけることが出来ません。

だから、礼拝でメッセージを聞いている時は「その通りだ」と思っても、礼拝が終わると、

そのメッセージは他人事のように、どこかに吹き飛んでしまうのです。こんな状態が当たり前

になっていて、どうして全能主を第一にして従って行くことができるでしょうか? 私たちは、

自分自身の肉の思い、すなわち、
「出来ない、従いたくない」という気持ちを折って、初めて

全能主の考えを心の中に入れることができる
のです。だから、まずは自分自身の肉の思いを

折るということを経験しなければなりません。しかもそれは、一度きりの経験ではなく、全能主

に従う者は、心を折って従うことが習慣的になって行かなければなりません。なぜなら、全能主

に従うことは、私たちクリスチャンの本音の心の中にあることだからです。しかし、
肉の思い

は御霊に逆らい、御霊の思いは肉に逆います。
だからこそ、そこに自由意志、すなわち信仰に

よって、肉の心を折っていくことが必要です。
それをやらなければ、私たちは何も始まりま

せん。それは誰がやるのでしょうか。自分自身です。全能主が無理矢理に為さることはあり

得ません。なぜなら、
私たちには自由意思が与えられているからです。だから全能主はその心

を出すかどうかを、信仰の心として見ておられるのです。そうであるなら、私たちは、
「自分

で自分にプレッシャーをかけて、自分の意思で自分の肉を折る」
か、どうかに掛かっています。

先程のぶどう園の譬えの中で、弟は自分の肉の思いを折って父の思いを心に入れ、父の望み通り

にしました。そのことによって、彼は父に繋がったのです。私たちも、自分で自分の肉の思い

を折って全能主の思いを心に入れ、全能主の望みどおりにして行くことが、全能主の心に繋がる

道です。


(結)こういうわけで、私たちには
自由意思が与えられているのですから、その自由意思を

使って、
自分で自分の肉を折って行きましょう。なぜなら、それをして初めて自分の肉から

離れて、全能主の考えを心に結び着け平安を味わうのです。これが「全能主を第一にして従って

行きたい」という気持ちを表す入り口となるところです。この信仰を表す世界に一歩踏み出す

のは、私たちの信仰の意志です。これは、自分の主権としてやることです。 自分の自由意思

ならば、やらずに済ませることもできます。しかし、自分の肉の思いを心の中に温存していた

ら、全能主のために生きる第一歩をいつまでも踏み出せません。どうか、
全能主の考えにそぐ

わない肉の心は、自分の意思で折って行きましょう。そして、「どこまでも全能主を第一に

して従って行く道」に踏み出しましょう。


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