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2019年1月20日
心のを開けて』

ルカの福音書14:25~35


(起)ルカ14章27節の「自分の十字架を負ってわたしについて来る者でなければ、わたしの弟子

となることはできません」という御言葉から、「心の(ふた)を開けて心にある罪を認め、その罪を

『悔いて』謝り、自分を『砕いて』自己否定し、そこから必死に全能主に頼って行く信仰」を

学んで行きたいと思います。

(承)さて、この世の中の価値観は、「結果さえ出せばそれでよし」という世界です。ですから、

失敗をして怒られた時、自分の心の中では少しも悪いと思っていなくても、口先だけで「申し訳あり

ません」と、その場をやり過ごし、自分の失態を取り戻して認めてもらおうとします。しかし、

全能主の前では、それは通用しません。なぜなら、全能主は人の心の中を見られるからです。

ですから、まず自分が過ちを犯したら、その原因は自分自身の心の内にあることを認め、その罪を

悔いるべきです。ところが、この世では、心の中まで咎めません。なぜなら、心の中の隠れた罪は

誰でも持っているからです。それを咎め始めたら、全ての人間の醜さが露見し、収拾が付かなく

なるからです。ですから、それを追求し始めたら、誰も人を信頼することが出来なくなり、前向き

に仕事が出来なくなってしまいます。しかも、心の中の思いを正直に口に出せば、人から嫌われる

だけです。人間は、他人や自分の醜い部分はあえて見たく在りません。だから、この世の中では、

「申し訳ありませんでした」と丁寧に謝ることでその場をやり過ごします。そして、あとは結果を

出しさえすれば、それで一件落着です。私たちのこの世の中では、家でも職場でも学校でも、

そのようにして済ませて来ました。それは、心の中まで問われたら、誰一人無罪の人はいない

からです。みんなやましい心を持っているのが人間です。だから、口で謝って失態を正していけば

「それでよし」というのが、この世の常識です。


(転) ところが、クリスチャンは、日常の歩みに於いて、心の中の罪を正直に見つめて悔いる

心を持たなければ、全能主と繋がりません。なぜなら、キリストの救いは、心の中にある罪が

問われ、その罪を認めたところから与えられるからです。しかし、この心の中の罪は決して消え

ません。だからそれを認めても、自分ではどうにもなりません。そこで、自分以外の方によって

処理されなければなりませんでした。それが、キリストの十字架の死です。キリストは、ご自分の

命と引き替えに、私たちの身代わりとなって罪の代価を払って下さいました。この贖いの御陰で、 

罪人が罪の裁きから救われるのです。ですから、
キリストの命と引き替えに救いを得たクリスチャン

は、せめて自分の犯した罪や過ちは正直に認め続けなければなりません。誰にでも罪があるからと

いって、自分の罪を棚上げにしてはいけないのです。
人間は、自分の罪を自分では何ともならない

ので、その罪を持ったままで救われる道を全能主は開いて下さいました。だからといって、自分の

罪に蓋をして、誰にだって心の中には醜い心があるからと、心の中の罪を見つめようともせず、

また悔いることもしないなら、「申し訳ありませんでした」と、口先だけで謝っても、命を懸けて

下さったイエス様に申し開きができません。これは絶対に間違っています。もし、
私たちがその

失態を自分の力で取り戻して、
済ますことが出来るような簡単なものなら、イエス様が十字架に

かかって死なれる必要はなかったでしょう。だから、全能主は、「お前が失態をしでかした原因は

どこにあるのか。なぜその部分を認めようとしないのか。たとえ信じていますと言っても、

その罪の原因を認めずして、どうしてイエス・キリストと繋がるのか」と、いつも私たちに問われ

ます。ですから、私たちは、この世のやり方と同じように、「申し訳ありません」と口先で謝って

済ますことは出来ないのです。私たちは、失態をした自分自身の心の内を見つめ、悔いる心が必要

です。しかし、悔いるだけで終わってもいけません。

 次に、「砕かれた心を持ちなさい」と聖書に書いてあります。
砕かれた心とは、すなわち自己否定

です。
「こんな自分は全能主の前に一つも受け入れられません。完全にお手上げです。どうにも

なりません」と自己否定するのです。そして、
自己否定した者は、その後どうすればいいのかと

言いますと、自分ではどうにもなりませんから、今度は全能主に心を向けそして、全能主に頼って

必死にやって行こうとするのです。
この姿こそが、全能主に受け入れられるのです。

(結) 私たちは全能主の前に100%罪人ですから、心の中の罪を認めてキリストを信じたの

です。ならば、信じた後もそうして行くべきです。なのに、また未信者時代のやり方に戻って、

自分の心の内にある罪の原因を見ようともせずに、自分の力で取り戻すことによって受け入れられ

ようとするのは間違っています。
まず心の蓋を開けて、自分の罪を見つめて「悔い」、そして

「砕かれた心」を持って自己否定しましょう。それが、「自分の十字架を負ってわたしに従って

来なさい」と言われた意味です。
だから、必死になって全能主に頼り、成すべき事を()らせて

貰らうのです。そのようにして私たちが心を変えて行くならば、全能主は次の道を開いてくださる

でしょう。どうか、この真理に立って始め出しましょう。



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