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2018年 NO.652 |
パリサイ人、祭司長たちは「行いを義」として来ました。絶対主は、彼らのその心を憂いて おられます。たとえ、聖書に精通し、御言を読んでも、絶対主に近づこうとしません。 何度も、何度も彼らの心に語りかけられても心を閉ざし、キリストを遣わされても心を閉ざし、 また「行いによらず心です」と伝えても、その心に響きませんでした。逆に、歯向かって 行ったのです。なぜでしょうか?彼らの教育に問題があったのでしょうか? 確かに、律法教育は間違っています。彼らは「罪人でも自分の努力で受け入れられる」という 人間の誇りを満足させたかったからです。それは、今日の日本でも同じです。点数だけで人の 良し悪しが評価されています。しかし、イエス様と出会った時に、私たちは上辺の良し悪し では通用しませんでした。ただ、自分自身が罪人であることを正直に認めるしかなかった のです。だから、「私は罪しかありません」と、へり下ってイエス様の救いを求めたのです。 なのに何故、信じた後には、罪深い自分自身から離れて、絶対主の前に行いの義を示そう とするのでしょうか? 自分が罪深い者であるということは、自分が一番良く知っています。なぜなら、心の中のこと は、その人が一番良く 知っているからです。しかし、他人に対すると、自分が罪深い者だと 正直に認めることが出来ません。競争相手にバカにされたくないからです。しかし、どんなに 頑張っても自分が罪深い者であることは、絶対主にはお見通しです。だから、人には「嘘」を ついて誤魔化しても、絶対主には決して誤魔化しは利きません。全部心の中を知られている からです。ならば、私たちは腹の底から自分が罪深い者であることを、「正直にその事実を 認める」しかないのです。なのに、「絶対主の前に罪深い自分を認めるだけでは赦してもらえ ない。赦してもらうためには、『正しい人間になります』と誠実な心を表さないと通用しない」 と思ってしまうのです。これが自分の義を立てている心だと気づくべきです。 表さなければ赦してもらえないと思う動機は、「ちゃんと改めるから認めて欲しい」という 自分勝手な義を主張する思いがあるのです。確かに悔い改めようとする思いは正しいかも 知れません。しかし、罪深い人間が本当に悔い改めるなら、条件なしで「自分は、心の底から 罪深い者です」という事実を認めるしかありません。その心の本根をもって、絶対主に悔いし 心を伝えるのです。「私は心の底から罪深くて、自分の中から誠実な心も、悔い改めて行く力 もありません。自分に出来るのは、罪深い者である事実を痛感するだけです。」ですから、 「私には、イエス様の救いが必要です。私はイエス様の贖いがなければ、偽善者として生きて 行くだけです。私は、自分の心を偽って生きたくありません。どうか、助けて下さい」と叫ぶ のです。それを「救いを戴きたいのです」とか、「絶対主に繋がりたいのです」という言い方 は、自分のわずかばかりのプライドを残した言い方です。それでは、罪人の本根の心を告白 したことになりません。罪人にそんな余裕はないからです。そんな余裕は片足を永遠の地獄に 突っ込んでいる者にあるはずがありません。私たちは、罪人の現状の中で絶対主に叫ぶのです。 本根は、「罪人です」の一言です。この本根をへり下って表して行きましょう。 |
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