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2018年9月9日


生まれながらに100%罪人である自分を認め、
イエス様によって生きて行く


マタイの福音書6:1~7、14~34、使徒の働き13:39

(起)マタイの福音書の「山上の垂訓」の記事と、「使徒の働き13:39」の御言葉から、「生まれ

ながらに100%罪人である自分を認め、イエス様によって生きて行く」ということを学んで行き

たいと思います。


(承)さて、この山上の垂訓の戒めを読んで行くと、「確かにイエス様の言われることは正しい、

その通りだ」と思いますが、実際の私たちは、ここで言われている通りには到底できそうにない人間

です。それでも、クリスチャンとして「このようにして行きたい」と願う気持ちはありますが、

現実の問題として幾らそうでありたいと願っても、とても無理なことです。なぜなら、罪からの救いを

頂いている者であっても、
私たちは命を閉じるまでは、生まれながらの魔物を抱えている罪人である

事実は代わらないからです。
確かに、聖書に書いてある以上、この箇所を読めば、「クリスチャンなら、

こうあるべきだ」と思うのは当然のことでしょう。しかし、同時に、その真実な心と正反対の自分の

声もあり、生身の人間が、目をえぐり出すようなことは到底出来ません。ですから、聖書を閉じれば、

聖書の勧めからすっかり離れた自分がいるのです。こんな現実が自分であり、到底真実な

クリスチャンとは言えません。こんな私たちが、信仰の本心が一体どこにあるのかさえ、分からなく

なるのです。結局は、未信者の時と同じように、いつも魔物の声にやられて、頑張ろうと思っても、

現実には何も出来ない自分を抱えているだけです。すると、諦めが先立ち、「もう何もやらない方が

いい。出来るわけがないから、もう下手に動かない方がいい」という諦めの意識が芽生えてきて、

キリストの救いは何なのかと、不信仰の中に入り込むのです。そして、信仰の心を動かそうとしない、

自分中心な世界に入り込んでしまうのです。


(転) では、こんな私たちは、どういう信仰の中に歩めば良いのでしょうか? 先日も学んだように、

牧師のメッセージを幾ら聞いても、「アーメン」と同意する信仰を口に出さないならば、それは、

まさに自分の心を働かそうとしないシラケた信仰者に留まっていることになります。逆に、「アーメン」

と口に出せば、霊的な声に同意し、「私は全能主に仕えて行きます」という信仰の心を積極的に表明する

ことになります。しかし、自分自身の内にいる魔物は、「お前は、いつ全能主を裏切るか分からない

人間なのに、『アーメン』とはっきり言えるのか」と馬鹿にしてきます。私たちはその魔物の声を

聞いて、「そりゃあそうだ。自分は実際に御言葉の通りに生きていないから、何もやらず、建前だけの

クリスチャンであった方が無難だ」と心をフリーズさせ、アーメンの方向に一歩も踏み出そうとして

いないクリスチャンになってしまっているのです。しかし、それは全く勘違いの信仰であり、間違った

敗北者の信仰です。なぜなら、「使徒13:39」を見て行きますと、「モーセの律法では義とされる

ことのできなかったすべての事について、信じる者は誰でも、このイエスによって義とされるのです」と

あります。すなわち、この御言葉こそ、聖書が語りたい真実であり、私たちの救いの土台なのです。

初めに申し上げたように、イエス様が山上で語られた戒めは、「人間としてこうあるべきだ」と言われ

ていますが、現実は、 それを実践して行くことは到底出来ない罪人であり、生まれながらに魔物を抱え

込んでいるのが私たちの現実です。ですから、イエス様は、初めから「戒めを守れないお手上げの

罪人である」ことを認めて、メシアの救いが必要であることを信じなさい、と求めておられます。

なぜなら、「健康な人には、医者はいらない。ただ病人だけが医者を必要とするからです」と言われた

からです。それは、こんな救いようのない私たちのために、イエス様がご自分の命を懸けて十字架に

かかって下さり、私たちの罪の贖いをして下さったのです。ですから、「モーセの律法では義と

されることのできなかったすべての事について」とあるように、イエス様は、はじめから分かって

話しておられたのです。要するに、山頂の説教は、人は自分の力では、義とされることが出来ないこと

を悟るために語られたのです。人は、「あれができる、これができる」という根拠で生きて行こう

としています。しかし、そうではなく、ただイエス様にあって生きて行くしか出来ないことを悟らせ

ようとされたのです。それが分かったら、
「こんな者でもイエス様によって義とされ、命の保証を

貰ったのですから、キリストのために、私を自由に使って下さい」
と、全能主に心を向けて行くべき

ではないでしょうか。この心を私たちは「アーメン」と口に出すのです。そして、全能主の考えに

私たちの霊が同意することです。たとえ魔物の声が聞こえたとしても、「アーメン」と言うことは

正しいのです。逆に、
魔物の声を聞いて自分の信仰を隠し、イエス様を信じている者としての霊的な

心を表さないのは間違っています。


(結)こういうわけで、私たちはもう魔物の声に騙されてはいけません。魔物が、私たちに救いを与えて

くれるのではありません。救いは、イエス様の贖いだけです。だから、全能主は「信じる者は誰でも、

イエスによって義とされる」と言われたのです。ならば、「全能主のために生きたい。私を使って

下さい」という心を表して良いのです。たとえ魔物の声が聞こえてきても、全能主に同意して行く

ならば、全能主は、私たちをパラダイスに入れてくださるのです。
私たちはイエス様によって義と

されたので、イエス様にあって生きて行く者だからです。
どうか、一人一人がこの生き方を始め

出して、常に「アーメン」と信じる心を表して行きましょう。


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