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2018年1月14日

自分の都合、自分の我を砕き、どこまでもまず絶対主の国と、

絶対主の義を第一に追い求めていく



ルカの福音書12:35~53



(起)「自分の都合、自分の我を砕き、どこまでもまず絶対主の国と、絶対主の義を第一に

追い求めて行く」ことを学んで行きたいと思います。

(承) さて、41節から見ていきますと、「忠実な思慮深い執事」と、「不忠実な執事」の

譬え話があります。「思慮深い忠実な執事」とはどういう者かと申しますと、裏表がなく、主人に

対して、常に変わらない心を持って仕えて行く者です。すなわち、どんなときも主人の考えを汲み、

主人の意向を第一にして仕えて行くしもべのことです。もし、この務めをしっかりと果たせば、

その者は主人から大きな報いを受けます。しかし、主人に対して僅かしか仕えなかった者は、

それだけの報いしか受けられません。すなわち、主人に対して多く仕えた者は多く与えられ、

僅かしか仕えなかったものは、僅かしか与えられないということです。そこで、イエス様は

「わたしは、地上に火を投げ込むために来たのです。…あなた方は、わたしが平和をもたらすために

来たと思っているのですか。そうではありません。むしろ分裂です」と語っておられます。

このことは、「この地上のことを第一にすることではなく、絶対主を第一に心を燃やしていきな

さい。」という勧めです。それは、「人が地上で幸いを得るとか、豊かさを得るとか、そんなことの

ためにわたしが来たのではなく、天での報いを与えるために来たのです」、「これから後、その

ことが分からない者との対立が起こってくるでしょう」と言われたのです。ですから、「あなた方

は、まず絶対主の国と絶対主の義を第一に求めて行きなさい」ということが、ここでのメッセージの

真意です。主が、「分裂が起こって来るでしょう」と言われたことは、イエス様に従う者と、

そうでない者とでは、考え方が全く違いますから、そこに分裂が起こってくるのは当然のことだから

です。この後、クリスチャンは世から憎まれ、排斥されることもあるでしょう。しかし、それは、

「聖書に書いてある通りですから、それで良いのだ」と割り切って行くのです。主に仕えて行く

とは、そういうことです。

(転) では、私たちが、「絶対主を第一にして行く生き方」を始め出して行くためには、

どのような心構えが必要でしょうか。それは、「自分の都合」と、「自分の我」を二の次にして行く

ことです。すなわち、「砕かれた悔いし心」を心の土台に持つのです。この「砕かれた悔いし心」

とは、「自分の損得に立たない」ということです。ということは、先程も申し上げたように、

絶対主を第一にして歩み始めようとすると、この世では不都合なことがたくさん起こって来ます。

それは、この世の生き方に合わせない考えに立ちますから、「人から誤解されたり、陰口を言われ

たり、嫌がらせをされたりする」ことが起こるでしょう。しかし、それでも私たちは「絶対主に

対して生きる」と決めていますので、世で受け入れられるために、自分の信仰と引き換えにして世に

合わせません。「そんな妥協をするなら、世から嫌われても本望です」と、自分の方から世に対して

見切りをつけ、面子を砕いて踏ん張って行くのです。すなわち、主に在っては喜んで泥を被って行く

ことです。
私たちは、人受けのいいクリスチャンを目指しているのではありません。むしろ、

絶対主に信頼されることを喜びとしています。ですから、この世にあって私たちが泥を被って行く

のは当然のことです。
このことを私たちの心の中に据えて、初めて「絶対主の義」を追い求めて行く

生き方が始まります。いつも自分を守って行くのが当たり前では、決して泥を被ることができま

せん。私たちのイエス様は、私たち罪人の為に(
かぎづめ)のついた(むち)で体を裂かれ、十字架の上で

恥辱の泥をかぶられました。それなら、私たちが泥をかぶることを逃げていては、絶対主に申し訳が

立ちません。確かに、泥を被ることは誰だって嫌でしょう。それは、馬鹿にされたり、恥を

こうむったりするからです。そして、世に対して面子を失います。しかし、私たちは、世に対して

死んだものです。(ガラテヤ6:14)ですから、もし「絶対主を第一にして従って行く」と決めた

ならば、私たちはその証しとして、「自分は主のために泥を被って行きます」という前向きな方向に

向かって行かなければ、「絶対主を第一にして従って行く」と決めたことが偽物になってしまい

ます。

(結) これからの私たちの働きは、絶対主の集大成の仕事です。ですから、自分の都合を主張して

いたら、絶対主の仕事をコンプリートすることはできません。それは、私たちが面子を重んじる

心を砕いて、「砕かれた悔いし心」を持って初めて出来ることです。もし、私たちがその覚悟を

持たずして働きを始めるなら、世からの反発があったときに、「自分は耐えられない」と言って、

簡単に妥協してしまうでしょう。それでは、絶対主に対して生きる私たちの本心が、偽りとなって

しまうでしょう。だから、世に対して泥を被って行くことを貫いて行きましょう。私たちはもう、

「自分ファースト」ではなく、「絶対主ファースト」です。どうか、自分の都合、自分の我を砕き、

どこまでも「絶対主の国と、絶対主の義」をまず第一に追い求めて行こうではありませんか。 
         
 
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