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2017年 NO.594 |
「自分を裁く」ということは、自らを言い訳の出来ない罪人であることを客観的に認めて、 自分の罪を無条件に断罪することです。この場合、無条件に罪を認めたのですから、罪の赦し を求める要素は入っていません。ですから、罪によ 留める覚悟を持つことが「自分を裁く」ことです。これは、私たちの救い主イエス・キリスト が、私たちの贖いの為に、白昼の下で受けられた 次に、「反省する」ということは、自分の行いを省みて、自分に注意し、罪を認めること です。この「反省」は、自分の主観的な悔いに基づいていますから、何とか恥と面子を失う ことなく、赦してもらおうとする気持ちが入っています。だから、反省して立ち直ろうとする ことが反省の目的であって、罪の報いを最小限に留めてもらい、再起を計ろうとする思惑が あります。この反省は、どこまでも自分の力に頼り、正しい行いをして立ち上がって行こう とする自分の義に根拠を置くものです。だから、立ち直ろうとする時には、自分の罪を棚上げ して、罪人の自覚から離れてしまうのです。 さて、絶対主が求めておられる罪の悔い改めは、どちらでしょうか? 多くのクリスチャンは、「罪は告白すれば良い」と考えています。しかし実際は、絶対主の 前に自分の行いでは義とされることのできない不義な者ですので、永遠の刑罰をルシファーと 共に燃えるゲヘナの中で受け続けなければならない程の罪人です。ですから、実際は、自分達 が思っている以上に絶望的な罪人であると知るべきです。現実に罪人である者が、どんなに 恐ろしいところに向っていたかを考えたら、自分の反省ぐらいではどうにもならないことが 分ります。しかも、犯した罪の報いを軽く考えて、再起を計ろうと考えている余地など、 あり得るはずがありません。私たちは、悪魔と同じ裁きに合うのです。ならば、赦してもら おうとする色気をもって悔い改めても駄目です。100%罪人の人間ですから、犯した罪には 必ず恐ろしい報いが伴います。それを覚悟して、自分の命を差し出すことしか出来ない者 であることを認めるべきです。ですから、こんな最悪な状態の罪人であったため、絶対主は、 御子の命をもって人を贖うしかないと考えたのです。だから、反省して罪を棚上げし、 罪の自覚から離れようとするのは、キリストの贖いを無駄にすることになります。 そこで大切なことは、御子による罪の代価が払われたとしても、私たちが最悪の罪人である 事実には、変らないということです。それは、御子の贖いを信じて救われた者も同じです。 信じたからといって、義人となったわけではないのです。ですから、「罪の悔い改め」は、 反省ではなく、自分が無条件に裁かれる罪人であったことを認めて「自分を裁く」悔い改めが 正しいのです。そして、その「悔い改める心」は、この体が贖われるまで一生涯抱き続けて 丁度です。又、信じて絶対主の子とされたからといって、「ゲヘナの裁きに服する者」で あった事実は、天国に迎えられたとしても、変わらない事実ですので、御国にあっても 「悔いて、へり下って行く」心は、永遠の心得として必要なことです。それなら、今のこの時 なら、尚更「自分を裁いて行くこと」は、クリスチャンにとって大切な心得です。決して、 罪を棚上げしようとすることは、イエス様の十字架の贖いにそぐわない行為です。 |
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