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2017年 NO.590 |
償いはしなければならず、それは、「この世で苦しみに会うことによって、あるいは大部分の 人は、死んだ後で煉獄で苦しむことによって償わなければならない。」と教えられています。 煉獄は、天国と地獄の間にある中間の場所であり、カトリック信者の中でも、ごく少数の信者を 除いて、すべての者が行かねばなりません。煉獄の火は地獄の火と同じ苦しみですが、ただ 地獄のように無限ではなく、有限の苦しみである点で相違があります。この煉獄で過さなければ ならない期間は、免償を得ることによって短縮もされます。たとえば、@聖書を読んだり、 Aロザリオ(数珠)を用いて祈りを唱えたり、Bキリストが十字架を負って歩まれた苦しみを 同じように苦業し、C聖水や、D聖なるメダイ(メダル)やE聖画像を用いて免償の儀式に 預ったり、Fミサでキリストのパンとブドウ酒に預ったりすることで部分免償があると言われ ます。「イエズスの聖心よ、私はあなたを信じます」という短い祈りを1回唱えるごとに、 神は百日分から三百日分の免償を与えて下さる。もし一日百回唱える者は、三万日分の 免償を得、一日に千回唱えるならば、毎日三十万日分の免償に預ることになります。更に、 ロザリオを用いて「天使祝詞」を唱えるならば、二千日分以上の免償が獲得できるのです。 そして、免罪符を購入すれば、煉獄の期間が大幅に短縮されることが保証されると言われ ました。この行為は、カトリックの司祭であったマルチン・ルターを激怒させました。ただし ルターの時代のように今日は「売りつける」ことはしていませんが、祈りや献金や死者のための ミサによって苦しみを減らすことができると教えています。これらのカトリック教義は、人間が キリストから受ける赦しは完全ではないということになり、行いによる救いを教え、イエス様が 十字架の贖いによって与えて下さった希望を何一つ与えていないのです。これらのカトリックの 教義は、トマス・アクィナスというイタリヤ神学者で、ドミニコ会の修道士であった彼が、 「人間の意志は堕落したが、知性は罪の影響を受けなかった」と主張したところから始まり ました。それは、「人間は自分自身の知性に信頼を置くことができる」と考え、「堕落した 人間が、キリストの救いに価する要素を自分で補うことが出来、神の許に立ち返ることが できる」と思って、すべての人間が天国に近づくことが出来ると考えたのです。しかし、 この考えは、今日のクリスチャンの内にも根付いています。「自分が努力をせずに救われよう」 と考えるのは甘いぞ、と思い、「自分を絶対主に全面的に懸けること」をしないのです。人間は 皆、生まれながらに全面的に罪人です。これが聖書の主張するところです。この聖書の主張と、 人間の考える主張と、どちらが真理でしょうか? 人間が正しいなら自分の全ての行為に責任を 取らなければなりません。その責任の償いは、煉獄の蟻地獄が、口を空けて待っているだけ です。 |
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