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2017年 NO.619 |
祈りの時に、「心の伴わない祈り」とは、どういう祈りでしょうか。それは、絶対主に 対して、自分勝手な思いを言葉に出すことであり、単なる押し付けを通すことです。 それが絶対主のみこころでない場合、又、絶対主に対して へり下った言葉を用いない場合は、 絶対主はその祈りを聞いても、「また勝手な祈りをしているな」と思われて、その祈りは天に 昇って行くことはありません。その言葉は、空しく地の底に下って行くだけになります。 しかし、絶対主の心を汲み、絶対主の意向に添った祈りならば、絶対主も関心を示され、 その祈りに答えようと心を動かして下さるでしょう。すなわち「心を遣う」とは、相手の 気持ちを汲んで相手の心に響く言葉を用いなければならないということです。そのためには、 普段の生活の中でも相手の心を考えて喋るように心掛けて行く必要があります。 まして「人に仕え、人の役に立つ事」を考えるなら、尚更この心遣いが大切です。相手の 心を逆撫でするような事をしたら、人に仕えるどころか、その人の邪魔をするだけになります。 そして、その心遣いも自分勝手な協力で あって、身勝手な押し付けとなるのです。だから、 「私たちが絶対主に従って行きたい」、「絶対主の役に立ちたい」と願っても、絶対主の心に 適った従い方をしなければ、否定されるだけです。絶対主の役に立つには、「絶対主は何を 考えておられるのか」、「何を願っておられるのか」、また「どういう言葉遣いをしたらいい のか」と、いつも 考えるべきです。又、御霊の声を通して絶対主のお気持ちを推し量って 行くべきです。その心遣いなくして、幾ら自分の思いを「心を込めて祈った」としても、 それは単なる人間の身勝手な祈りに終わるのです。もう、私たちは、「自分がこうしたい、 こうありたいです」という主張は必要ありません。それよりも、私たちの心の底に住む魔物の 汚れから贖って頂いた以上、私たちの祈りは全て適えられている訳ですので、むしろ、 「この命を絶対主の為だけに使って頂けたら、それで十分です」と祈るべきです。しかも 「この世の終わりに至って、絶対主の救いの集大成のために働きをさせてもらえるなら、 もうこの命は惜しいとは思いません」と祈るべきです。これが分かったら、自分中心な祈りを する必要があるでしょうか? 私たちは、もう自分中心な祈りから離れましょう。 そして、「滅私奉公」の心をもって、絶対主の前に積極的な意味の自己否定をして、絶対主の 心に通じる命の用い方をして行きましょう。 |
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