(起)「心と行動が一致した、霊的な生き方」を始め出すことについて学んで行きたいと思い
ます。
(承)さて、最近、私たちは「霊的な生き方とは何か」ということについて学んで来ましたが、
今回一つ教えられたことは、「クリスチャンの生き方とは、霊的な心と行動が一致していなければ
ならない」ということです。人間は、「心と行動が裏腹」ということがよくありますが、それは
いわゆる「偽善」であって、絶対主もイエス様も、それを一番嫌われます。例えば、ユダヤ人は
律法を重んじ、外側では絶対主に従っているように見せかけながら、心の中には律法に反する心を
しっかりと持っていたのです。イエス様は、彼らのその部分を指摘し、断罪されました。それが
「山上の垂訓」です。いくら外側を装って、「これをやりました、あれをやりました」と
言っても、そこに心が伴っていなければ、それはただの偽善であり、そんな見せかけは、
絶対主の前には通用しないのです。ところが、彼らには、「確かに罪の心は持っているし、
律法を完璧に守っているとは言い切れないが、一生懸命やろうとしてきた」という義だけはあるの
です。そのような人は、今日お読みした中にある、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
永遠の命を持つ」と言われたイエス様の言葉を聞くと、「絶対主の前に正しい行いもせずに、
永遠の命が得られるなんて、そんな簡単なものじゃないでしょ。こんなひどい言葉は聞いて
いられない」と言って、イエス様に反抗してしまうのです。
(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちは、家庭でも学校でも、「良い子であるように」
と育てられ、教育を受けてきました。そのような中で、一般的に「良い子」とされるのは、「心の
中に持っているわがままな思い、自分勝手な思いを、外に出さずに我慢できる子」です。
逆に、わがままな思いを我慢できずに、自分の思い通りにやる子は「悪い子」です。
どちらかというと、長男・長女は、「わがままな自分の思い」を我慢する傾向があります。「自分
はお兄ちゃんだから、お姉ちゃんだから、親が困ることをやっちゃいけない」と思って、自分の
思いをぐっとこらえるのです。しかし、それはどういうことかというと、「心と行動が裏腹」と
いうことです。しかし、この世では、わがままを我慢して、抑えることのできる子は「良い子」
として褒められます。しかし、絶対主の目から見ると、「偽善者」なのです。そういう人は、
「良い子」を装って生きて行くことが当然のこととして育ってきましたが、それでも怒られると、
「自分の中にわがままな心があることは分かっているけど、それを出さずに我慢してきたのに、
何故私が怒られなくちゃいけないの」と言って、反抗心を表すのです。これは、先程お話しした
ユダヤ人と全く一緒です。この反抗心は、「良い子でやってきた」と思っている人に限って
強く出てきます。逆に、子どもの頃から自分の思い通りに生きてきた人は、自分でも悪いことが
分かっていますから、怒られれば、「そのとおりだ」と素直に受けとめて謝ることもできます。
だから、絶対主の目で見たならば、「そういう者の方が助かる。安心する。罪人として理解して
いるのだから。」と言われるのです。ここに、霊的なものの見方と肉的なものの見方の違いが
出て来ます。
(結)こういうわけですから、「自分はこれをやりました、あれをやりました」と言って、良い子
ぶることが霊的なのではありません。心の中に正反対の気持ちを持ちながら、外見さえ帳尻あわせ
すればいいと思ってやっても、絶対主の前には通用しません。絶対主は、「人の外側を見られるの
ではなく、心を見られるからです」(Ⅰサムエル16:7)。ですから、絶対主が一番願っておら
れるのは、心から出てくる霊的な行動です。それは、私たちの生れつきの肉からは出てきません。
これは、信じた者が新しく学んで行く心です。だから、その心を私たちは御霊さまの声を聞くこと
によって、霊的なものの見方、考え方を学び、自分の心の中に入れて行く必要があります。
それを毎日続けて行くと、私たちの心の中に、霊的なものの見方、考え方が段々すり込まれて
行き、自然とその霊的なものの考え方で行動を起こすようになって行きます。すなわち、霊的な心
と行動が一致して行くということです。私たちはこの生き方を目指すことができるのですから、
まず、御霊さまの声を毎日聞くことによって、霊的なものの見方、考え方を身につけて行きま
しょう。そして、心と行動が一致した霊的な生き方を始め出そうではありませんか。
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