教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室



2016年1月22日
『罪人の原点は何か』

ルカの福音書15:11~32

(起) 放蕩息子の例話から、「罪人の原点とは何か」ということについて、学んで行きたいと

思います。


(承)さて、この例話の中に出てくる弟息子は、父親に、「あなたの財産のうちで

私が頂く分を下さい」と言い、そのお金を受け取ると、幾日もたたないうちに遠い土地へ

旅立ち、そこで財産を使い果たしてしまいました。すると、丁度その地方に飢饉が起こり、

彼は生活に困る羽目になってしまったのです。まだお金があった頃は、助けてくれる友人も

いましたが、今ではもう誰も助けてくれません。こんな惨めなどん底に、彼は落ちてしまい

ました。そんな中で、ある人が、豚の世話をする仕事をくれましたが、それでお金がもらえる

わけでもなく、食事さえ十分に与えて貰うことができませんでした。そこで、彼はふと本心に

立ち返り、「家では、食べたい時にいつでも食べることが出来た。なのに、なぜ自分はここで

飢え死にしようとしているのだろう。もう家に帰りたい」という気持ちになったのです。

しかし、家に戻っても、「父からお説教をくらい、受け入れてもらうことは出来ないだろう」と

不安な心で一杯でしたが、思い切って家に帰り「息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ

雇人の一人にして下さい」と言おうと、家に向かったのです。そんな彼の内には、もう、

「赦してほしい」という思いさえもなく、むしろ、「赦してもらえる資格なんて、

自分にはない」という自覚があったのです。だから、「お父さん、私は天に対しても、

あなたに対しても、罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。」と、

ハッキリ言えたのです。実際には、彼は「雇人の一人にして下さい」とまでは言えません

でしたが、「私は天に対しても、あなたに対しても、罪を犯しました。もう、あなたの息子と

呼ばれる資格はありません」とハッキリ言いました。その言葉を聞いた父親は、それで

十分でした。なぜなら、息子は罪に落ちきった状態でこの言葉を口にしていると分かったから

です。罪に落ちきっている息子を、それ以上責める必要はありません。だから、父親は彼を

赦し、新しい着物を着させ、指輪をはめさせ、食事を与えました。これは、「息子が戻って

来てくれた」という、父親の安心感の表れであったのです。


(転)では、この放蕩息子の例話を通して学ぶことは何でしょうか。それは、私たちのような

罪人に対して、全能主が本当に安心感を持たれるのは、私たち自身が、心底から「自分は罪を

犯しました。もう自分のような者は赦される資格などありません。また、慰められる資格も

ありません」という自覚を持って全能主の前に出ることです。このことは、日々の生活の中で、

私たちが罪を犯す度毎にその心を持って謝りに行くべきです。ルカ17章4節を見ると、

「たとえ、その人があなたに対して、一日に七度罪を犯しても、七度『悔い改めます』と言って

あなたのところへ帰ってくれば、赦してやりなさい」とあります。これは、罪を犯して謝りに

行く立場から考えますと、「2回くらいまでは何とか赦されるかもしれませんが、さすがに

3回目は飽きられて、叱り飛ばされてし終わりだ」と思ってしまいます。そうすると、

分かっていても、もう謝りに行かなくなってしまいます。しかし、それはどこまでも人間の

考えであって、
そんな面子さえ持てない罪人であることを思い知らされたら、放蕩息子の

ように、面子を全て捨てて、本気で謝りに行くしかないのです
。即ち、罪人ならば

わずかばかりのプライドでさえ、完全に打ち砕かなければならないということです。

もし謝りに行かなければ、一生涯赦しはやってきません。ならば、どんなに恥をかいたと

しても、自分が罪を犯したならば、謝りに行くだけです。と同時に、もし私たちが赦す立場に

立った時、たとえ、その人が同じ罪を何度も繰り返したとしても、メンツも何もかも捨てて、

自分の罪をさらけ出して来たのなら、その人の罪を裁いてはいけません。むしろ、包んであげる

べきです。なぜなら、全能主が私たちにそのようにして下さったからです。私たちは、全能主の

前に何か良いものを持って行ったわけではありません。どうしようもない、まさに放蕩息子の

ように落ちきった自分を、そのまま持って行っただけです。すると、全能主は、「それでいい。

そのお前のためにイエスが贖いをしたのだから」と言って下さるのです。
私たちが恥を

かかないで済むようにしてくれるのが全能主の愛ではなく、罪に落ちきって恥をかいた者に、

追い打ちをかけずに包んで下さるのが全能主の愛なのです。


(結)ですから、私たちは、自分がどれほどの罪人であるのか、一生涯自覚して行くべきです。

私たちの信仰の原点は、 放蕩息子のように、惨めな罪人の姿を誤魔化さずに認めることです。

この罪人の原点を絶対に見失ってはいけません。また、これ以上、全能主を悲しませることを

してはいけません。それは、「これ以上、罪を犯してはいけない」ということではなく、
「罪を

認めず、罪を棚上げにしてはいけない」と言う事です
。なぜなら、そこに全能主の御子の命が

捧げられているからです。私たちは罪人ですから、なお罪の世界に足を踏み入れてしまうことが

あるでしょう。しかし、それでもへりくだって、罪人の原点に立ち返り、自分のメンツを保たずに

謝ったら、それで良いのです。そうすれば、全能主との繋がりは保たれます。そして、全能主は

そういう者を見て、安心されるでしょう。どうか、この罪人の原点に立って、全能主と繋がって

行きましょう。 

 

 


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室