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2016年 NO.570 |
「空っぽの器」とは、自分の感情を横に置いて、絶対主と聖書を土台とした理屈の中で考える ことです。人間の感情は自分の都合を優先します。そして、自分のリスクを嫌い、自分の思いを 正当化しようと弁解します。ですから、自分の感情の思いに捕らわれていたら、絶対主に従う ことはできません。人は、いくら理屈で説得されても、自分の心(感情)が付いていかないと 反発し、理屈を無視して、従おうとはしません。しかも、この感情は自分の心そのものだと 考えていますので、この感情が無くならなければ、自分の心を変えることができないと思って しまうのです。ところが、この感情は決して人間の心から無くなってしまうことはありません。 しかし、横に置くことはできます。それは、自分の意志によってすることです。すると、相手の 言葉が白紙の心で聞くことが出来、理屈に立った論理を受け留めることが出来、初めて相手の 言わんとするところが見えて来て、「分かった」と悟ることが出来るのです。このようにする ことが、絶対主の理屈に従うクリスチャンの生き方だと分かると、へり下って従おうとする 心が出て来ます。これが「砕かれた心」であり、感情を横に置いて、白紙の心に立った状態を 「空っぽの器」というのです。絶対主は、私たちがこの心の作業をすることを願っておられ ます。そうでないと、いくら聖霊に満たされ、力を頂いても、自分の感情に立っていたら、 聖霊の導きに従えないからです。「感情を横に置いて聞く」という作業をしなければ、永遠に 心は変わりません。ですから、「感情を横に置いて聞く習慣」を身に付け、「絶対主の前で 考えた理屈」で、信仰の歩みを始め出して行きましょう。 |
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