『元旦礼拝のメッセージより』
(ルカ5章27節〜32節)
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「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を悔い改めに導くためである」
(ルカ5:32)。この御言は、レビという取税人がイエス様を自分の家に招いて食事会を
開いた時、パリサイ人が「どうしてあなたは、取税人や罪人と食べたり飲んだりするのか」
と呟いたため、イエス様がパリサイ人らに語った言葉です。このパリサイ人たちは、
自分たちには1つも罪がない者のように人を批難しています。これは自分の罪を棚上げした
言い方です。人がもし、イエス様との交わりを持つことを願うなら、自分の罪を棚上げして
はいけません。なぜなら、イエス様は、罪人を探して救うために来られたからです。
しかし、クリスチャンであっても「罪を責められる」と、とっさに自分の罪を棚上げに
します。又、「怒られたくないと思ったり、良い子と思ってもらいたいとか、自分の弱さに
留まり続ける時とか、何とか精神を持とうとしない時」などは、無意識の内に自分の罪を
棚上げしているのです。この罪の棚上げしている心、又そのような物言いをする人たちは、
罪人を探して救うために来られたイエス様の心に反しますので、イエス様の心と合わせる
ことが出来ません。それは、パリサイ人や律法学者のように、イエス様の心と軋轢
(あつれき)が生じ、仲が悪くなり、交わりを保つことが出来ないのです。それに引き替え、
7章36〜50節に出てくる罪深い女は、パリサイ人の家に来て泣きながらイエス様の足
に香油を塗りました。そこで、イエス様を招いたパリサイ人が、「自分を触っている女が、
どれだけ罪深い女か」と言ってイエス様を裁きましたが、イエス様はこの女に対し、
「あなたの信じ仰ぐ心があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言って、
この女を受け入れられました。人は、「自分の語る言葉の中に、自分の罪を棚上げして
いるかどうかが、明らかになる」のです。もし、自分の原罪を認め、生まれながらに罪人
であることを自覚しているなら、罪深い女がイエス様に近づいていても、裁く言い方は
出来ないはずです。私たちは、たとえ、人を叱っている場合でも、罪人である自分を自覚
している人は、それが分る言葉使いが出て来るものです。ですから、クリスチャンは、
常日頃から、自分が罪人でゼロの人間であることを絶対主の前に認めて行くべきです。
ダビデは「私の罪は、いつも私の目の前にあります」と告白していました。私たちも、
自分の罪を棚上げせず、空っぽの器であることを自覚しましょう。そして、今年は、
絶対に新しい歩みの年としたいと思います。それは、イエス様が地上に来られた主旨に
沿った心を持つことです。「人の子が来たのは、失われた罪人を探して救うためです。」
(ルカ19:10)
ですから、私たちは、まず自分を正しいとする義を1つでも2つでも砕いて、100%罪人
の自分を悟らされて行くべきです。聖霊の満たしのため、曇らされている心の正直さを取り
戻して、「生まれながらに母は、私を罪ある者(100%)としてみごもった」ことを認めて
行きましょう。
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