(起)「『御霊の満たしを受ける心』とは、自分の罪を自分の目の前に置き、絶対主の前に
へりくだっていくことである」ということについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、詩篇は主にダビデによって書かれていますが、その中でも詩篇51篇という
のは、ダビデ王が、「自分の兵士の妻(バテ・シェバ)を自分の許に召し入れ、その後で、その
夫を戦いの最前線に出して殺してしまった」という罪を預言者ナタンに指摘されました。彼は
ナタンに自分の犯した罪の重さを思い知らされ、悩み苦しみました。その苦しみの中で、ダビデが
絶対主に向かって叫んだ祈りが、この詩篇51篇です。そこで、まず1節を見ますと、「絶対主
よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪を
ぬぐい去ってください」と、祈っています。彼は、自分があまりにも卑怯な罪を犯したことに心を
痛め、「自分は絶対主の前に赦されない罪を犯してしまった。だから絶対主から裁きを受けて、
自分は地獄に行くのだ」という、絶望的な中へ入って行きました。しかし同時に、「罪の重さに
耐えかねて、なんとか赦して下さい」という必死の願いを、祈りを通して訴えています。彼は、
同じような祈りを15まで繰り返し、3節と7節では、「まことに、私は自分の背きの罪を知って
います。私の罪は、いつも私の目の前にあります…ヒソプをもって私の罪を除いて清めて下さい。
そうすれば、私は清くなりましょう。」と。彼の中には、「自分の悔い改めによって、なんとか
絶対主に受け入れてもらいたい」という強い意識がありました。ところが、次の16節では、
「たとい私がささげても、まことに、あなたは『いけにえ』を喜ばれません。『全焼のいけにえ』
を望まれません」と、正反対のことを言っています。そして、17節では、「絶対主への『いけ
にえ』は、『砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。絶対主よ。あなたは、それをさげすまれ
ません』と言いました。」この時、彼は聖霊によって言葉を与えられ、絶対主が望んでおられる
のは、「これから、正しい心で歩みます」と表明することではなく、自分が犯した罪を自分の
目の前に置き、絶対主の前にへりくだって行くこと。すなわち、「砕かれた魂」だけだということ
を悟ったのです。
(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちも、罪を犯した後で苦しみ、心に痛みを覚え
ます。しかし、その状態のままでは生きていけませんから、やはりダビデさんと同じように、
「どうか、この苦しみを取り除けてください。罪をきよめて除いてください」という気持ちになり
ます。そして、「充分苦しみましたから、充分反省しましたから」と言って、自分が犯した罪を
目の前から遠ざけ、心の奥底に仕舞い込み、「自分の醜い罪から離れて、何もなかったかのように
生きていきたい」と思うのです。そして、「これからは真面目にやっていきますので」と、心を
入れ替えたが如くに、「自分はこれやりました」「あれをやりました」と言って、絶対主にもう
一度認めてもらおうとするのです。しかし、絶対主は、そんなものを受け入れてはくれません。
絶対主が受け入れられるのは、「罪を棚上げしない、砕かれた悔いた心」です。すなわち、
「正しい行いや、生け贄を絶対主の前に持って行くことではありません。私は、こんなに
恥ずかしい、えげつない罪を犯してしまった者です」というその事実を認め、ありのままの罪深い
自分を自覚した、「悔いた心」なのです。絶対主は、「その心を持った者を蔑まれません。」と
言われました。なぜなら、私たちは反省したからと言って、罪がなくなるわけではなく、また同じ
罪を犯さないと言い切れる者でもありません。私たちは、「『一生懸命やります』ということを
表明して、成果を出していく者が、絶対主の前に受け入れられるのだ」と思いがちですが、それは
大間違いです。絶対主は、外側の行いを見られるのではなく、行いの背後にある心の罪も見られる
方ですから、絶対主のように聖なる心を持って完全な行いのできる人はいません。ですから、
せめて自分の罪を目の前に置いて、「自分はこんな罪を犯した者だ」ということを自覚している
者こそ、絶対主は逆に安心なさるのです。そして、「罪人であるおまえを、わたしは知っている
からこそ、御子を送ったのだ。お前は、その自分自身の罪人の姿をちゃんと自覚しながら、わたし
の前にへりくだって来なさい。そうすれば、わたしはお前をキリストのゆえに、御国に入れること
が出来るから」と仰って下さるのです。
(結) ですから、私たちは、決して、罪を棚上げしてはいけないのです。私たちが、今しなけれ
ばならないことは、「私の罪を雪よりも白くしてください」と祈ることではありません。また、
「これからは真面目に生きていきます」と、粋がった表明をすることでもありません。
ただ、自分が犯してしまった数々の罪を、自分の目の前に置いて、罪人である自分を絶対主の前に
自覚して行くことです。罪をイエス様が帳消しにして下さっても、私たちが帳消しにしては
いけないのです。絶対主が望んでおられるのは、その「砕かれた、悔いた心」なのです。どうか、
私たちはその心を抱いて、絶対主の前に歩ませてもらおうではありませんか。
|