(起)復活の命にあずかるクリスチャンの望みに目を向けて、御国に繋がるクリスチャンの
あり方は、死に至るまで忠実である『勝利を得る者』の生き方を学んでいきたいと思います。
(承) さて、黙示録には、信者が患難時代を通って行くことが明確に記されています。例えば、
7章の13節の、「白い衣を身にまとっている人々」というのは、14節に記されている「大きな
患難を通って来た人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くした人たち」であると、
はっきり記されています。すなわち、患難時代の中にあっては、獣は聖徒に勝つことが許されます
≪13章7節≫。ですから、逆にクリスチャンは殉教を通して獣に打ち勝つのです。その人たちは
7章15節にあるように、死んだ後に甦らされ、白い衣を着せられて、絶対主の御前に幕屋を
張り、子羊によって、命の水に導かれる人々なのです。ところが、現代のほとんどのクリスチャン
は目が曇らされており、「患難時代の前に天に引き上げられる」と、考えています。もし、
その考えのまま患難時代に入ったら、その人たちはどうなるでしょうか。「イエス様を信じていた
のに、何故こんな目に遭わなくちゃならないのだ」と失望落胆し、主を信じてきたことの意味を
見失ってしまいます。また、自暴自棄になって絶対主に背を向けていく可能性さえあります。
そのような人は、たとえ信者であっても、いわゆるグレーな信者となって信仰を全うすることが
できないだけでなく、ゲヘナへ繋がる者となってしまう可能性があります。私たちは、そのような
グレーな信者ではなく、患難時代の中にあって、死に至るまで忠実な「勝利を得る者」となって
行くべきです。その明確な信仰の証は、獣に妥協せず、命を引き換えにしても、主を信じる信仰の
心を通していくことです。
(転) では、その明確なクリスチャンとなっていくために、必要な心は何でしょうか。それは、
「罪人である自分自身をしっかりと自覚している心」です。その心を持っていれば、患難時代に
たとえ自分の命を奪われることになったとしても、「もともと罪人の肉の命なのですから、朽ちる
肉の命はいずれ失うものですから、これを取られても当然です」と差し出して行けるでしょう。
しかも、明確なクリスチャンは、キリストの贖いの故に復活し、御霊の体が与えられます。
このように、パラダイスに望みを置いているクリスチャンは、絶対主に自分の命を預けることが
できます。すると、その者は絶対主と繋がり、「大きな患難を通ってきた者」として天に迎え
入れられるのです。絶対主は、「罪を犯さない立派なクリスチャンを天に迎え入れよう」と考えて
おられるのではありません。多くの人は、イエス様を信じた後、「自分は救われたのだから、
聖い人間にならなければいけない。良い人間にならなければいけない」と必死に義人ぶって
生きようとします。しかし、それは無意味です。いくら頑張っても、生まれながらの人間は
罪人であり、「生まれながらの血肉は、絶対主の国を継ぐことが出来ません」(第Ⅰコリント15:
50)。私たちは、罪人であったが故に、キリストは罪の償いの為に命を差し出して下さったの
です。ですから、罪人は贖われただけで、罪人の自分は変わりません。どんな良い行いをしても、
罪人であることには変わりないのです。たとえこの地上で、「あの人はすごい人だ」と思われる
ようなことをしたとしても、生まれながらに持っている罪の肉が消える訳ではありません。
ですから、この朽ちて行く肉の命を取られても、敗北するわけではありません。むしろ、信じる
信仰のゆえにこの命を差し出して、獣に信じる信仰を表すなら、その殉教の後に待っているものは
子羊の血で洗った新しいからだと、白い衣が与えられるのです。私たちの生まれながらの血肉は、
朽ちていくだけのものです。ですから、この命はキリストに預け、信じる信仰は捨てないことを、
獣に突き付けて行くだけです。私たちがこの地上で出来ることと言えば、ただ罪人の自分を
そのまま認めて、キリストの贖いを信じ通すことだけです。確かに、罪人である自分の醜い罪を
認めることは嫌なことかもしれません。それは、自分にとっては呪いですから。しかし、まさに
その姿こそが、生まれながらの自分の現実の姿なのですから、その事実を正直に認め、その罪を
へりくだって受け止めて行くしかありません。罪を犯してしまった時には、当然怒られますが、
その報いは、受けて行くべきです。そのへりくだった心を持って、私たちは信仰を全うして行くの
です。
(結) イエス様は、どうしようもない罪人を救うために、十字架にかかって罪の償いをして
下さいました。そして、三日目に甦られたのです。ですから、信じた者は、このキリストの甦りの
命に預かることが出来ます。そして、イエス様は、私たちが死んだ後、私たちを甦らせ罪のない
キリストと同じ体に変えて下さり、「御国に来て良いよ」と声をかけて下さいます。その時には、
罪も何もかも洗い流され、全く新しい、朽ちない体を頂いて、天に行くことができます。私たち
にはその約束が与えられているのですから、臆するグレーな信者ではなく、最後まで信じる信仰を
通して、復活の恵みに預かりましょう。この「勝利を得る者」の望みこそ、キリストの復活された
イースターを喜び祝うのです。
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