(起)「主に喜ばれるものが何であるかを考え、吟味して行く」(エペソ5:10)ことに
ついて、学んで行きたいと思います。
(承) さて、今日お読みしたエペソ4章では、イエス・キリストを信じた者たちが、
その後どのように生きて行けば良いのかという歩みについて書かれています。4:1節を
見ますと、「…あなた方は、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」とあり、その具体的な
内容が、その後にずっと書かれています。しかし、私たちはここを読むと、「こんな生き方が
自分に本当に出来るのかな」と不安になります。なぜかというと、今の私たちでは、ここに
書いてある生き方を実現する力がないからです。私たちは、確かにイエス様を信じましたが、
私たちが生まれながらに持っている「罪に汚れた魂」の部分は、依然として変わっていません。
イエス様を信じたことによって、御霊さまの助けを受けて行くことができるようにされた
という点は、信じる前とは違います。しかしだからといって、私たちがいつも御霊さまの声に
従い、完璧に聖書に書いてある通りに歩んでいるかと言ったら、歩んでいません。これが今の
私たちの現実です。
(転) では、パウロさんのように、聖書に書いてあるとおりに歩み、生涯その生き方を貫いて
行くためには、どうしたら良いのでしょうか?私たちは救われた以上、聖書に書いてある通りに
歩んでいきたいという願いがあります。しかし、それには、御霊に満たされる必要があります。
なぜなら、パウロさんのメッセージには、御霊に満たされることが前提で記されているから
です。「私は命じます。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことは
ありません」(ガラ5:16)。また、「なぜなら、肉の願うところは御霊に逆らい、御霊の
願うところは肉の性質に逆らうからです」(ガラ5:17)とあるからです。ですから、聖書の
生き方をそのまま目差すなら、御霊の満たしは、必携です。それは、エペソ5:18に
あるように、私たち自身が御霊に満たされ続けて行かなければなりません。確かに、私たちの
内には信じた時に御霊が入って下さいましたが、入って下さっただけではいけないのです。
御霊さまの力がもっと強くされ、私たち自身に大きな影響力を及ぼして下さるようにされて行く
必要があります。私たちは、罪に汚れた魂を元々持っていますので、いつも肉の思うままに
行動し、自分勝手な方向に向かって行ってしまいます。ところが、御霊に満たされると、
私たちの内に住んでおられる御霊さまは、肉に逆らい(ガラテヤ5:17)御霊が強く
私たちを、肉の思いから離れさせようとされるのです。そして、更に御霊の思いの中に
歩むように導いて下さるのです。それが御霊の満たしです。それが無ければ、私たちは
生まれながらの人間のように、ただ救われただけで力なく、聖書に書いてある通りの生き方を、
どうあがいても実現していくことは出来ません。ところが、御霊の満たしを受けずに、「自分は
本当に力のない弱い者だ、本当に何もできない」と苦しみながら、それでも何とか絶対主に心を
向け、命を閉じて行かれる方々もいることは確かです。しかし、絶対主は、そのような方々を
見捨てる訳ではありません。それでも、心に掛けて下さるのは事実です。絶対主のお考えは
一様ではありませんから、満たしを受けた者にも、受けていない者にも、公平に心を掛けて
下さり、取り扱って下さいます。
(結) しかしながら、この地上で、パウロさんのように用いて頂きたいと願うなら、
聖霊の満たしは必携です。しかも、私たちの教会は、この終わりの時代の最後の中で、絶対主の
救いの集大成のために働く召しがあります。ですから、御霊の満たしは、絶対に必要です。
この満たしに必要なのは、砕かれた心です。なぜなら,賜物を受けたことによって傲慢に
なるなら、絶対主の御心に反する者になり、ルシファーと同じになって、絶対主の救いの
集大成の働きを邪魔するだけになるからです。賜物を自分の栄光のために使うことが、
一番恐ろしい結果を生むのです。ですから、結局最後は、私たちのへりくだりの心次第だ
ということです。ですから、私たちにとって大切なことは、エペソ5:10にあるように、
「主に喜ばれるものが何であるかを、吟味する」ということです。そして、私たちにとって、
主の試みの日以来「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」という御言葉が、私たちの教会の
柱になっていますから、どこまでも主を信じ、御霊の満たしを受けて聖書に書いてある通りの
生き方を証しし、その生涯を全うすることが、「絶対主が成し遂げて下さる」ことを味わう
秘訣です。なぜなら、絶対主は私たちの教会を、世界の救いの集大成のために使おうと考えて
下さっていることが、今明らかにされているからです。その御心に従って、御霊に満たされて
使われていくなら、主の豊かな祝福を見るでしょう。「主に喜ばれるものが何であるかを考え、
吟味して行こう」ではありませんか。
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