(起)「心を使うことにおいて、惜しむことなく、精一杯使い尽くす」ということについて、
学んで行きたいと思います。
(承) さて、この譬えの中には、主人から、5タラント、2タラント、1タラントの財産を
与えられた者がそれぞれ出てきます。そして、そのタラントを用いて商売をし、そこで
与えられたタラントに対して忠実であったかどうかの評価が記されています。私たちは、
ここを読むと、すぐに自分自身を見て、「自分は、1タラント、2タラント程の能力しか
ないから、その程度のことしか出来ない」と考えてしまいますが、それは間違っています。
15節を見ると、「それぞれの能力に応じて」とありますから、主人は、一人一人の能力を
正しく見て、「その人自身が精一杯用いて行くことのできる金額を考えて与えた」ということ
です。自分の能力を越えた金額をもらっても、それをどのように使えば良いのか分からない
なら、逆に使い切れずに無駄なお金になってしまいます。だから、与えられたタラントに差が
あるのではなく、また、タラントの差で分け隔てしているわけではありません。ただ
「与えられたタラントに、心を全力で傾けたかどうか」という忠実を見られているのです。
だから、「タラントが少ない」からと言って、辱められることでもなく、ひがむことでもないの
です。むしろ、一人一人が、自分に与えられたタラントに全力を傾け、それを発揮して行くなら
皆が「良い忠実な僕よ。」と言われるのです。それなら、自分に与えられたタラントを使う
ことにおいて、「心を惜しむことなく、全力を注いで使い尽くして行こう」ということになる
はずです。
(転) では、「この心を使い尽くす」ということについて、ベタニヤのマリヤさんと、
ペテロさんの記事を通して、心を全力で使い尽くしていくことを、具体的に学んで行きたいと
思います。26:6から、ベタニヤのマリヤさんがイエス様に香油を注ぐ記事が出てきます。
この時、マリヤさんはどのような気持ちでイエス様に香油を注いだのでしょうか。おそらく、
彼女はイエス様が好きだったのだと思います。そうでなければ、ここまでのことは出来なかった
でしょう。そこで、私たちは、「そんな感情を働かせて良いのか。イエス様に対しては、
感情ではなく霊的な心で向かって行くべきではないのか」と疑問を感じてしまいます。なぜなら
聖書を見て行く限り、イエス様はいつも霊的な心で物事を判断し、霊的な価値を大事にして
教えておられたからです。だから、私たちも、「信仰は感情じゃない。霊的な判断は肉の感情を
排除した世界の中にあるのだ」と考えてしまいます。しかし、マリヤさんがイエス様に対して、
好意を持って香油を塗ったことは、罪だったのでしょうか。いいえ、決して罪ではありません。
イエス様は、「彼女を困らせてはいけない」とかばっておられます。では、ペテロの場合は
どうでしょうか。彼は、26:33で、「たとい、皆の者があなたにつまずいても、この私は
決してつまずきません」と言い、また35節では、「たとい、あなたと一緒に死ななければ
ならないとしても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と感情的に言い切り
ました。しかし、彼はこの後、「イエス様を知らない」と言って、裏切ってしまったのです。
普通なら、「ほら見ろ。お前はそうやって裏切るのだ。感情的なお前は信じられない」と
言われてしまいます。しかし、イエス様は彼の信仰がなくならないように祈って下さって
いました。それは、「つまずきません」と言った彼の言葉は、悪意で言ったものではなく、
「信じる心を持って言ったものだった」からです。彼は、イエス様を自分の救い主、
メシヤとして信じていました。だからこそ、「その方が死ぬ事は、絶対にありえない」という、
強い気持ちがあったのです。その感情は、イエス様が理解し受け止めて下さっていました。
だから、彼は否定されることはなかったのです。そして、その後もペテロは、ずっとイエス様の
側にいることが出来ました。こうして、ベタニヤのマリヤさんもペテロさんも、彼らの心を
全力で主に傾けていたことが分ります。
(結) このように、たとえ感情によって出た行為でも、私たちが「信じる心を持った感情」は
受け止められます。彼らは、イエス様に、「心を惜しむことなく、精一杯感情を用いて、
心を使い尽くした」と言えるのです。それは、信じる心があったからです。だから、決して
否定されることはありませんでした。それがたとえ感情から出てきたものであっても、「信じる
心から出た感情」なら、絶対主は受け止めてくださいます。このように、彼らが使った心は、
タラントの多い少ないから出たものではありません。彼ら一人一人の精一杯の行為でした。
私たちも、ベタニヤのマリヤさんやペテロさんのように、イエス様に対する気持ちを、
もっともっと出して行くべきです。そこに感情が伴っても構いません。その感情が、信じる心を
持った感情であるなら、イエス様に通じるからです。だから、私たちは、「イエス様のことを
一途に考え、イエス様のために生きて行きたい」という気持ちを表し、心を使い尽くして行こう
ではありませんか。たとえ1タラントであっても、その気持ちを表して行くなら、与えられた
タラントを忠実に使ったことになるのです。タラントの譬えは、そのことを教えているの
ですから、与えられたタラントを用いるために、心を惜しむことなく、精一杯使い尽くして
行こうではありませんか。
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