クリスチャンは、「先ず、絶対主の国と絶対主の義を求めなさい」とあります。
この勧めは、「自分のことは、後回しにしなさい」ということです。この生き方を、この地上
でしなければ、キリストに単なる望みを置いているだけで、絶対主の国を利用するだけに
なってしまいます。私たちがキリストを信じたのは、100%罪人の者でしかない現実を
知って「こんな罪人を贖うために、イエス様が命を捨てて下さった」ということが分ったから
です。ですから、キリストの救いに預った人は、自分のことより、絶対主の国と義を、まず
第一にしていくのです。クリスチャンにとっては、この地上のことは終りました。ですから、
キリスト一筋になるのです。
ところが人間は、「義人はいない。一人もいない。」とある通り、救われても罪を犯します。
生まれながらの人間は、「自分のしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行ってしまう
のです。」すると、キリスト一筋になれない自分に、矛盾を覚えるのです。すると、こんな
罪人の私たちが死んだ時、信仰の証しを残せるのでしょうか? たとい、救い主であるイエス
様を信じたとしても、「ことさらに罪を犯し続けるなら、罪のためのいけにえはもはやありま
せん。ただ、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つだけです
(へブル10:26〜27)。」とあります。すると、イエス様の救いを信じたことの証しは、
どのようにして残すのでしょうか? 今、迫害もないこの時代に「イエス様を信じている」と
言っても、地上の損得だけを追い求めていたのなら、絶対主を利用しただけで終り、絶対主の
国と義を求めて来たと言えるでしょうか? これでは私たちが死んだ時、自分の罪しか残せ
ません。しかし、この時代の終りには、患難時代が来ます。666という荒す憎むべき者が
この地球を支配し、自分を拝まない者には売ることも買うことも出来ないようにします。
そして、聖徒に戦いを挑んで勝ち、世界を支配し、自分に逆らう者は皆殺させます。「ここに
聖徒たちの忍耐と主を仰ぐ心があります。」クリスチャンが信仰に立つ時、皆死ぬのです。
しかしこの死は、命を懸けてイエス様を信じたことの証しです。すなわち、患難時代にクリス
チャンが入るということは呪いではなく、罪人にすぎないクリスチャンが、唯一自分の命を
懸けてキリストを信じたという事実を証しすることになります。すなわち、「絶対主の国と
絶対主の義を、先ず選び取った」証しを残すことになるのです。
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