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2015年 NO.516 |
さげすまれません。」(詩51篇17節)私たちは、「砕かれた魂」(詩51篇17節) 私たちは、「砕かれた魂」については、これまで多くの時間をかけて学んできました。 それは100%罪人の人間は、自分の正しさを主張できるものは一つもないということです。 ですから、罪人が罪人としての自覚を持って、自分の正しさに立たず、へり下り、自分を 守ろうとする我を砕いて従うのです。これは、罪人なら当然のことです。そして、今一つ。 それは「砕かれた悔いた心」です。これは、私たちの一番苦手な部分です。 なぜなら、「悔いた心」とは自分の過去の過ち、失敗、恥、そして、惨めな自分の姿を一生涯 忘れず、自分の心の中に留めておくということだからです。私たちの心は、自分の嫌な経験は、 無意識の内に忘れ去ろうとします。しかし、時折過去の過ちを思い出し、 惨めな自分を思い巡らすことがあります。すると、居た堪れなくなり、自分の悪夢を消し 去ろうと思います。そのために、強い人間、良い人間、正しい人間になって過去の恥を拭い 去ろうと考えるのです。しかし、人間は一生かかっても罪は消えません。ですから、自分の 過去の過ちは一生涯負って行かなければならないのです。 しかし、イエス様は、そんな他人の私たちの為にご自分の命を身代わりにして、罪人の代価 を払って下さいました。ならば、せめて私たちは自分の罪の責めぐらいは、一生涯負って行く べきです。自分の蒔いた罪を棚上げにすることは、イエス様に対して失礼です。 そればかりか、私たちが自分の過去の恥を全部忘れたら、必ず傲慢になります。だから、 自分の恥を忘れず、心に留めておくなら、同じ過ちを警戒する心も出てくるのです。しかし、 自分の惨めさをいつまでも心に入れておくことは、気が滅入り、憂鬱になって自信を失う でしょう。しかしながら、絶対主は、その「悔いた心」を持っている者をさげすまれません。 なぜなら、絶対主の前に罪人の丁度の姿を自覚することだからです。 |
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