キリストは、「罪人を救うために、この世に来て下さった。」(第Tテモテ1:15)
とあります。ですから、イエス様は、「義人を招くためではなく、罪人を悔い改めに
至らせるために来られた」のです。ということは、人は「罪人としての真摯な自覚を
抱いている者」のみが、主の救いに望みを置くことが出来ます。単なる自分勝手な罪人
の理解では、身勝手な悔い改めとなり、意味がありません。その身勝手な悔い改めとは、
自分の犯した罪の責任を取りたくなくて、「ただ赦して欲しい」というだけの罪意識
です。これは、主の十字架を利用するだけで、真摯な罪の自覚とは言えません。
私たちの正しい罪意識とは、人に対する罪意識ではなく絶対主に対して罪の自覚を
持つことです。その場合、ダビデさんの罪の自覚のように、「まことに、私は自分の
そむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、
ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。・・・ああ、
私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」というこの
告白こそが、人間として罪の自覚を持った者の真摯な心です。
ところが、「ただ自分は地獄に行きたくないから」とか、「裁かれたくないから」とか、
「神は愛だから」とか、「創造主の存在が分ったから」と言って、「主を信じます」と
告白しても、何の意味もありません。なぜなら、キリストは罪人を探して救うために
来て下さったのであり、絶対主に対しての罪の自覚のない者を救うために来られたの
ではありません。私たちの罪意識が、人に対して恐れる心から出たもの、或いは人
からの叱責を恐れて抱く罪意識では、どこまでも自分勝手な罪の自覚にすぎません。
絶対主と繋がる罪意識なら、救いに繋がります。それは、絶対主に対して抱く、
無条件の悔い改めだからです。その時には、「もう赦して下さい」とさえ、叫ぶ言葉も
なくなります。ただ、生まれながらの罪人その者を、絶対主の前に正直に差し出すだけ
です。その時が、私たちの罪を贖うために来て下さったイエス様と繋がるチャンスです。
肉の罪意識ではなく、絶対主の前に罪の自覚を持った真摯な罪の自覚に立ちましょう。
これは、御霊の取り扱いが必要です。ですから、素直な心でへり下りましょう。
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