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2015年9月6日


外なる人を砕いて、強い意識で内なる人を出していく


マタイの福音書4:1~11


(起)「外なる人を砕いて、強い意識で内なる人を出していく」ことについて、学んで行きたい

と思います。 

(承) さて、イエス様はサタンの試みを受けるために40日も断食をし、肉を持った人間

として一番弱い状態になり、荒野でサタンの試みを受けました。サタンはイエス様に近づいて、

「もしあなたが絶対主の子なら、この石が、パンになるように命じなさい」と  言いました。

確かに、絶対主の御子であるイエス様は、人を地のチリで創られましたので、石やパンの元々の

元素は同じですから、石がパンになるように命じて、弱った身体のエネルギーにすることは

容易なことでした。しかし、イエス様は絶対主の子の権威を使いませんでした。なぜかというと、

「ここで絶対主の子としての力を使ってしまったら、人の子としての立場を否定することに

なってしまい、人間の姿をとって律法を全うし、人間の罪の贖いをする」という使命を果たす

ことができなくなってしまうからです。だから、イエス様の「人の子としての立場」は、とても

大切でした。

 では、次に8節を見て行きますと、サタンは試みの仕方を変えて、「あなたが絶対主の子では

なくて、人だと言うのなら、世のすべての国々と栄華が欲しいだろー。もし、ひれ伏して拝む

なら、あなたにあげよう」と言って来たのです。そんなことを言われて、イエス様は絶対主の子

であることを否定する訳にもいきません。元々、絶対主の子ですから、サタンを拝むなんてこと

は絶対にできません。だから、内なる人の強い意識をもって、「サタンよ、退け」と言われたの

です。すると、サタンは離れ去っていきました。ここで分かることは、サタンは、「絶対主の子

であり、また人である」という二面性を持ったイエス様を知っていたということです。二面性を

持っていると、一面で答えを出すことはできませんから、サタンはそこに目をつけて、イエス様

に攻撃を仕掛けて来たのです。

(転) では、私たちの場合の二面性について考えていきたいと思います。実は私たちも、

イエス様と同じように二面性を持っています。それは、「内なる人と外なる人」という二面性

です。人間にとって「内なる人」は、自分自身の霊的な部分であり、未信者にもあります。

未信者の場合、外面的な部分に対して、内面的な部分が「内なる人」です。しかし、クリスチャ

ンにとっては、イエス様を信じた時に御霊の内住が起こりますので、その御霊は私たちの

「内なる人」の中に留まられます。
ですから、クリスチャンにとっての内面的な部分は、御霊の

影響によって絶対主に対して忠実であろうとする、「内なる人」です。
その内なる人の気持ち

は、御霊が後押しし、助けてくれます。信じると、このような特別な立場に置かれるのです。

ところが、それと同時に、「外なる人」も依然として存在します。これを聖書では、「肉」と

表現しています。外なる人は完璧に罪に汚れており、絶対主に逆らうこともします。「自分さえ

良ければいい」という世界です。この相反する二面性を、私たちは持っているのです。サタンは

そのことを知っていますから、イエス様を試みたように、私たちをいろんな方法で揺さぶって

きます。もし私たちが内なる人を大事にしようとするなら、外なる人が、「私の心の律法に

対して戦いを挑み、そして体に存在する罪の原理の中に私を虜にする」のです(ロマ7:23)

逆に、外なる人を大事にしようとすると、内なる人が、「私がしたいと思う善を行わないで、

したくない悪を行っている」と嘆きます。そして、内なる人は、「お前は、罪の中で生きて

いけるのか?もし内なる人の命を失ったらどうなるのだ?地獄だろ」と言って、私たちの心を

グラグラにさせ、「私は、なんという惨めな人間なのでしょう」と叫び、私たちはどっちに

着けば良いのか分からなくなってしまいます。これが、私たちクリスチャンが持っている二面性

で、この現実の故に、サタンの揺さぶりは非常に巧妙にやって来るのです。では、このサタンに

対して、私たちはどのように立ち向っていけば良いのでしょうか。それは、イエス様がなさった

ように、「サタンよ、退け」です。「絶対主を拝し、ただ絶対主にのみ仕えよ」という「内なる

人の思い」に心を向け、
強い意識でその内なる人の思いを出すのです。私たちがサタンと戦う

時には、これしかありません。「私は絶対主に従う」という内なる人の思いに強く立って、

サタンに立ち向かっていくのです。でなければ、 私たちはいつもサタンに揺さぶられ、自分の

いるところが分からなくなって、最終的には潰されてしまいます。そんなことが絶対にあっては

なりません。
(結) ですから、私たちは、たとえサタンの攻撃を受けようが、揺さぶられよう

が、そんなことで、自分自身の「内なる人」を眠らせていてはいけません。むしろ、内なる人を

外に出していくべきなのです。私たちは今、その訓練として、「祈る時は、内なる人で祈る」

ということを教えられています。「内なる人で祈る」とは、御霊の助けの声を聞いて、強い心で、

内なる人の思いを出すことです。 その意識があれば、祈る前にまず、「主よ。どうぞお助け

下さい。祈りの言葉を下さい」と祈るはずです。そうすると、御霊の助けによって自分の内なる

人に意識が集中し、内なる人の思いが声となって出てきます。私たちの内なる人の正直な思いは、

「まず絶対主の国と、絶対主の義を追い求めよ」という声です。こうして、私たちの内にも、

一面の人間性だけでなく、「内なる人と外なる人」という二面性の現実がありますので、そこに

サタンの揺さぶりが起こってきます。しかし、主に従って行く「内なる人の声」が私たちの本心

ですから、「サタンよ、退け」と言って、内なる人の声に勇気をもって従って行くのです。

いくらサタンが揺さぶって来ようが、内なる人の叫びが正しいのですから、強い意識をもって、

その内なる人を外に出して行きましょう。



 


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