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2015年9月20日


「御言葉を聞いて悟る人」


マタイの福音書13:18~23



(起) 今朝は、種蒔きのたとえの中の「御言葉を聞いて悟る人」について、学んでいきたいと思います。


(承) さて、この種蒔きのたとえ話の中には、「道端に蒔かれた者」、「岩地に蒔かれた者」、「茨の中に蒔かれた者」、「良い地に蒔かれた者」が出てきますが、「御言葉を聞いて」というところまでは、みな同じです。違うのは、御言葉を聞いた後に「悟るかどうか」です。まず、「道端に蒔かれた者」とは、御言葉を聞いても、悟らない人のことです。せっかくその人の心の中に蒔かれた御言葉の種を悪魔が奪い取って行き、その人は実を結ぶことができないからです。次に、「岩地に蒔かれた者」とは、御言葉を聞いて、その時は喜んで受け入れますが根がないので育たず、すぐにつまずいて終わってしまう人のことです。この人も、実を結ぶことができません。次に、「茨の中に蒔かれた者」とは、御言葉を聞いても、世の心遣いと富の惑わしによって御言葉が塞がれ、実を結べない人のことです。次に、「良い地に蒔かれた者」とは、御言葉を聞いて悟る人のことです。その人は実を結び、その種は百倍、六十倍、三十倍にもなっていきます。御言葉を聞いて、悟る人と、悟らない人とでは、こんなにも大きな差が起こってくるのです。


(転) では、「悟る」とはどういうことなのでしょうか。「悟る」とは、絶対主を丸々受け入れることです。私たちは、「自分の頭でよく考え、理解すること」が「悟ること」だと思っていますが、それは違います。人間の頭の理解には限界があるからです。たとえば、人間の体の仕組みを見る時、ものすごい知恵をもって創り上げられていることが分かります。隅から隅まで落ち度なく考えられていて、しかもそれがコントロールされているのです。この驚くべき仕組みを知ると、私たちは「この仕組みをつくられたイエス様は、どのようにして1個1個の細胞を設計し、その細かい計算をされたのかなぁー」と、ふと考えてしまいます。ところが、実際はいちいち計算して創った訳ではなく、イエス様はすべてのものをイメージで創られました。それは、創世記1:26を見れば分かります。絶対主は、「ご自身の形に、自分自身にイメージして人を造ろう」と言われました。だから、イエス様がそのイメージをもって人間をおつくりになった時、完全な創造だったのです。その出来上がったものは、「非常に善かった」とあります。(創世記1:31) また、創世記2:1に、「完成された」とあるように、イエス様がイメージして創るものはすべて、非の打ち所のない完璧なシステムをもって、完成されたのです。イエス様は、私たちが考えるように、一つ一つ設計図を書いて創り上げるということはなさいません。私たちには理解することのできない、人知をはるかに越えた完全な能力をイエス様は持っておられるからです。つまり、私たち人間は、主の手で創られた被造物であり、その中で生かされている者に過ぎません。すなわち、私たちは「()の中の(かわず)」です。井戸(いど)の中の(かえる)は、いくら頑張っても井戸の中の事柄しか分かりません。決して外に出ることはできませんから、人間はいくら頭で考えても、世界を知り尽くすことは到底できないのです。いくら頑張っても、井戸の中の世界しか分かりません。人間とは、そういうものです。確かに、人間は頭で考えて、いろいろなものを発見しますが、それは既にある仕組みを発見するだけです。創作といえども、自然界の中にある物を真似ているに過ぎません。人間の命の仕組みにしても、その人知をはるかに越えた仕組みに、ただ驚くばかりです。これは事実です。だから、命を造られた創造主であるキリストの力は、計り知れないのです。いくら頭の良い学者であろうと、私たちが考えられることは、閉じられた宇宙の限られた狭い範囲だけなのです。ですから、私たちは自分の頭に頼る傲慢は、へりくだりに変えられなければなりません。私たちは、全知全能の絶対主、また創造主であるイエス様に頼り、100%信頼していくべきです。そして、無条件で聞き従っていく時に、悟りが開かれてきます。「悟る」というのは、「人間は創られた者ですから、従うのは当然だ」という意識を持つことです

(結) 私たちは、どこまでいっても、「井の中の蛙」です。だから、宇宙という井戸の中の世界しか、イメージできないのですから、全能主を完全に理解することはできません。そんな人間が、「納得できないから信じない」とか、「理解できないから、イエス様の言葉をそのまま信じることはできない」と言う資格があるのでしょうか? ありません。絶対主は初めから絶対的なお方で、私たちはそのお方に創られた者です。それが分かった以上、絶対主なる父、また創造主であるイエス様に従うのは当然です。私たちはいつもへりくだって、絶対主を全面的に受け入れていくのです。だから、「まず、絶対主の国とその義を求め」、「絶対主が言われたなら、それはその通りだ」と受け入れ、100%信頼して、絶対主の言われるままを行っていくことです。「御言葉を聞いて悟る人」とは、このような人のことです。これをして初めて、私たちは実を結ぶ者となるのです。どうか、今までの自分を中心に考えて来た傲慢な考え方を全部捨てて、「絶対主に従うのは当然のことだ」とこの生き方を始めていこうではありませんか。                      



 


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