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2015年7月12日


『損得勘定から離れ、御霊に属する者として生きていく』


第Ⅰコリント3:1~3



(起)「損得勘定から離れ、御霊に属する者として生きていく」ことについて学んで行きたいと

思います。


(承) さて、3:1を見ますと、「私はあなた方には、御霊に属する人のように話すことが

できず・・・」とありますが、「御霊に属する人」とはどのような人のことでしょうか。それは、

第Ⅰコリント6:20にあるように、「イエス様によって買い取られたものとして、この体と

霊をもって、絶対主の栄光を現していく」、その生き方をして行く人のことです。また、その

具体的な歩みについては、3:10~15で語られています。私たちは、イエス・キリストを

土台として信仰による建物を建てて行くのですが、その建物は、「私たちがこの地上でどう歩ん

で来たか」という信仰の歩みのことを言っています。そして歩みの真価は、裁きの日に火に

よって明らかにされます。「火で焼かれた時、その建物が残れば、絶対主から報いを受けますが、

その建物が焼けてしまえば、損失を被る」とあります。ですから、これから私たちは、すぐに

燃えてしまう木、草、わらや、熱で溶けてしまう見栄の宝石ではなく、試練を受けても金や銀の

ように、火によってむしろ精錬されていく建物を建てて行かなくてはなりません。私たちは、

「果たして自分は本当に金銀の建物を建てているだろうか」と、そんなことを考えるのではなく、

むしろ、「精一杯自分の命を使って、金銀の建物を建てて行くのだ」という意識を、いま明確に

持つべきです。それが「出来るとか、出来ない」ということを考えて、後ろ向きな気持ちに

なっている場合ではありません。「10年もすれば、その後に患難時代が始まる」と、私たちは

絶対主に対して真剣な心を持って歩んで行くべきです。ですから、余裕などは私たちには一切

ありません。


(転) では、御霊に属する者として生き、金銀の建物を建てて行く歩みをするために、今

私たちが身に付けて置くべき心は何でしょうか。それは、「絶対主の国と絶対主の義を、まず

第一に求めていく信仰の心」を表して行くことです。すなわち、
「絶対主のために生きていくか、

自分のために生きていくか
を、はっきりと定めた心を表して行く」ことです。このことを定める

には、
「自分自身の霊による意志決定」が必要です。この霊の意志決定をする時、私たちはいろ

いろなことを考えます。「自分は飽き性で、決めたことをすぐに翻してしまう人間だし、今まで

もダメだったから、決めたってしょうがない」と言って、結局、「霊の意志決定」をしない卑怯

な心に捕らえられることです。しかも、そこに自分の心を向けて行こうとしない。なんだかんだ

理由をつけて、自分の霊の自由意志によって決断することから逃げて行くのです。その一番の

原因はどこにあるのでしょうか。「自分は飽き性だから・・・」などといろいろ弁解しますが、

本心は、
「絶対主に従うと決めたら、いつも絶対主の言いなりになり、自分の思い通りにやって

いくことができない」
と嫌うからです。ですから、決めたくないだけです。また、「自分の都合

をいつも否定していかなくてはならないし、出来ないこともやっていかなくてはならない。

それを嫌がれば怒られるし、失敗すれば、また全面的に叱られる。そんなの耐えられない。」

というのが、私たちの本音なのでしょう。確かに、自分の気持ちの中には、「絶対主に従って

いきたい」という気持ちはあるでしょう。しかしそれ以上に、自分自身の損得勘定先に立ち、

常に強く働くのです。
この損得勘定が、私たちの霊の意志決定を妨げています。ですから、

今私たちがしなければならないことは、この損得勘定を砕き、放棄することです。これを砕いた

上で
霊の意志決定をしようとするなら、御霊の声は明確になり、「御霊の性質に属することと、

肉の性質に属すること」の意味が、はっきり分かってきます。そして、「絶対主に従うことは、

絶対主の国と義に従うことであり、自分に従うとは、損得勘定に従うことだ」ということが、

より一層はっきりしてきます。それが分かって初めて、「自分はどちらを選択するか」という

霊の意志決定をするになります。自分自身が損得勘定を肯定している以上は、どんなに強い御霊

の促しがあっても、決断することは出来ません。
「決断した」と言っても、それは単なる口先

だけになります。
霊による意志決定は、自分の中にある損得勘定を捨てるところから始まるの

です。


(結) 私たちは「イエス様によって、罪の奴隷から代価を払って買い取られた者です。」

ですから、もう自分の命は、イエス様のものです。それなのに、なお自分を守り、きっぱりと

「絶対主に従っていく」と、定め切れない理由は何か、と言えば、この損得勘定です。

この損得勘定を捨てなければ、私たちは「肉の性質に属する者」として、ただの普通の人間の

ように生きていくだけになります。普通の人間は皆、損得勘定で生きているからです。しかし、

私たちクリスチャンは、「イエス様によって代価が払われ、イエス様にあって生きている者」

ですから、損得勘定から離れて決断する方向に向かっていきましょう。そしてその心に立って、

「絶対主に従う」という決断をし、御霊の性質に属する者として生きて行こうではありま

せんか。 
   

 


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