(起)「後ろのものを忘れ、前のものに向かって『何とか精神』を働かせていく」ということに
ついて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、ここに出てくるシメオンという人は、「キリストを見るまでは、死ぬことはない」
という聖霊の示しを受けていました(26節)。というのは、ユダヤ人たちは、メシヤの出現を
長い間待ち望んでいたからです。それは、彼らがバビロンに捕え移されてから、自分たちの礼拝
の場を失い、「絶対主から引き離された生活をしていくのは、もう耐えられない」という気持ち
を抱いたからです。それで彼らは、他国にありながらも、「何とか、自分たちの信仰を守り
通そう」という意識を持ち始め、メシヤの救いを必死に求め、律法を学び始めたのです。
そんな中、300年近く経ってから、シメオンは聖霊の示しを受け(26節)、実際にこのメシヤ
と出会うことが出来ました。そして、メシヤであるイエス様の身に起こってくるこれからの
出来事について、彼は預言をしたのです。その内容は母マリヤにとっては、とても辛いもの
でした。2章35節の、「剣で胸を刺し貫かれる」と言うことは、これから、マリヤが遭遇する
ことです。それは、わが子イエスによって本当に辛い、苦しい気持ちを味わうということです。
それは、わが子イエスが十字架刑にかかり、その苦痛を自分の目で見るということです。
また、「多くの人の心にある思いが、現れるようになる」とは、罪人の心が表に吹き出て来て、
救い主を殺すということです。それらが、一手にイエス様の上に成就するのです。
(転) では、このシメオンの預言を、「私たち自身に語られていること」として読んで行った
場合、どうなるでしょうか。まず、シメオン自身に与えられた、「キリストを見るまでは、死ぬ
ことはない」という預言は、「666を見るまでは、死ぬことはない」と置き換えて読むことも
出来ます。そして、666が出現した時には、私たちは、「剣で胸を刺し貫かれるような辛い
思いを味わう」と理解することも出来ます。そして、この預言を通して伝えられている一番大切
なことは、「これから患難時代に入った時、クリスチャンということの故に捕えられ、恐ろしい
経験をすることがあっても、イエス様との繋がりを自ら切ることだけは、断じて、してはいけ
ない」ということです。もしそれをしてしまったら、その時点で、天の御国に入る道は断たれる
からです。聖書を見ると、「救いの福音を聞き、彼を信じた結果、約束の聖霊によって証印を
押されたのです。この聖霊は、私たちが絶対主の御国を受け継ぐことの保証です」
(エペソ1:13~14)という御言葉もあれば、「一旦光を受けて、聖霊にあずかった者たち
が、その後、堕落した場合、再び悔い改めに立ち返らせることは不可能だからです」
(へブル6:4~6)という、正反対の御言葉もあります。これは両方とも真理ですから、
私たちは両方とも受けとめていくべきです。私たちは、確かにイエス様の贖いを信じ受け取り、
心の内に、約束の聖霊を頂きました。「だから、一度信じたら、永遠に救いを失うことはない。
」ということは真実です。しかしながら、もし絶対主との繫がりを自分で切ってしまったら、
滅びに行くのも真実です。だから、私たちはへブル書の御言葉のように、イエス様との繋がりを
自ら切ってしまう可能性も十分あるのです。もし666が出現した時に、「あともう少し踏ん
張れば天の御国だ」というギリギリのところで、切ってしまうことだってあり得ます。もしそれ
をしてしまったら終わりです。ですから、そこで私たちに必要なのは、「何とかして」という
パウロさんの生き方をしていくことが大切です。私たちは必ず、「もう出来ない。一生懸命やった
けど、それでもダメだった。もうこれ以上出来ない」という壁にぶち当たる時が来ます。そこで、
「何とかして」という気持ちを持たなければならないのです。パウロさんは、その「何とか精神」
の大切さを知っていました。だから彼は、「何とかして死者の復活の状態に達したい。」
「何とかして獲得しようと懸命に努めている」(ピリピ:11~12)と言ったのです。
私たちにも、その懸命さが必要です。それを持っていなければ、私たちは御国を簡単に諦めて
しまうことになるからです。私たちには罪がありますから、いつイエス様に反抗し、
自棄(やけ)になるか分かりません。その怖さを、心の深いところに持っているのです。
その反抗の精神を持っていることは、自分が一番よく分かっているはずです。だから私たちは、
「何とかして、切らずに最後まで行きたい」という気持ちを持って行くのです。何があっても、
絶対に御国に入ることを諦めちゃいけません。「何とかして御国に入るために、死者の復活の
状態に達したい。」という、パウロさんの心を自分の心にするのです。この心を、私たちは死ぬ
まで持って行くべきです。
(結) ですから、パウロさんが言っているように、私たちは後ろのものを忘れ、前のものに
向かって懸命に努力し、ひたすら目標を目指して走っていきましょう。(ピリピ3:13~14)
「前のもの」とは何でしょうか。それは、「天の御国であり、死者の復活です。」少なくとも、
私たちは何とかイエス様と絶対主との繋がりを切らずにここまで来ました。ですから、これから
先も、イエス様と絶対主の繋がりを切らずに最後まで行けたなら、天の御国に入ることが出来
ます。そして、死者の復活にあずかり、天の御国に入ることが出来るのです。どうか、この
「何とか精神」を、最後まで貫いていきましょう。自分自身の過去の不信仰の負の遺産は捨てて、
これからは前のものに向かって、「何とか精神」を働かせて行こうではありませんか。
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