(起)「新しい人であるクリスチャンの歩み(ゼロからの出発)」について、学んでいきたいと
思います。
(承) さて、まず14節を見ていきますと、「主を信じる人々は、ますます加えられ続け、
男も女も、おびただしく増えていった」とあります。今では考えられないような光景ですが、
このようなことが、実際に使徒時代にあったのです。これらの働きは、使徒たちが聖霊のバプテ
スマを受けた時から始まりました。(使徒の働き2:1~4)聖霊の満たしを受ける前の彼ら
というのは、福音書を読めば分かりますが、まさにイエス様を置き去りにして、挫折し憔悴した
者たちの集まりでした。ところが、そんな彼らが、聖霊の満たしを受けた途端に、こんなに
大胆な働きをしていく者となって行ったのです。私たちはここを読むと、「自分たちもこんな
生き方をしたい。もし、この使徒たちと同じような力が与えられて、彼らと同じような働きが
出来るなら、絶対にそうして欲しい」と思います。私たちも、彼らと同じ絶対主を信じ、同じ
イエス様を信じた者です。ならば、「彼らの内に起こったことが、今日の私たちにも同じように
起こる」と期待してはいけないのでしょうか?いいはずです。当時の絶対主とイエス様は、今と
同じはずですから。私たちの教会は、その気持ちを持って、ここまで聖霊の満たしを求め続けて
きました。
(転) では、その聖霊の満たしを受けるために必要なことは何でしょうか。「それは、
『いくら努力しても、古い人からは何も出てこない。生まれながらの自分は、ゼロの人間だ』と
いうことを悟ること」です。そして、その役に立たない、古い人を見切って、新しい人で生きて
いくことです。古い人は、生まれながらに100%罪人ですから、御国を受け継ぐことは
出来ません。(第Ⅰコリント15:50)だからイエス様は、「誰でも、新しく生まれなければ、
絶対主の国を見ることは出来ません」(ヨハネ3:3)と言われたのです。そして、その新しく
生まれることについて、パウロさんはロマ書で明確に語っています。「生まれながらの自分
(古い人)は、キリストと共に葬られたのです。しかし、イエス様を信じた私たちは、イエス様
が甦らされたのと同じように、私たちもまた、死人の中から甦り、新しい命の中で歩むのです」
(ロマ書6:4)と語りました。では、私たちが今も現実に持っている古い人はどうしたら良い
のでしょうか。それは、完璧に見切っていくことです。古い人は、いくら努力して頑張っても、
決して御国に繋がることはありません。古い人は100%罪人だからです。だから、「現実には、
古い自分はあるけれども、完璧に見切って、目を向けない。古い自分と新しい自分をごちゃ混ぜ
にしない」ということです。新しい人と古い人は無関係です。だから、古い人に頼らず、新しい
人は、イエス様に頼ってやっていくのです。これが、新しい人の生き方です。もし、私たちが
古い人に頼ってやっていくなら、必ず行き詰まります。「なんとか(古い自分)で頑張って、
古い人を変えて行くのだ」という気持ちを持ったまま、聖霊の満たしを受けたら、どうなる
でしょうか。「変わった自分に有頂天になり、自分でも出来る」と思うようになります。
そうすると、絶対主から与えられた力がすべて自分自身の誇りとなり、「自分が何者かである」
かのように思ってしまうのです。絶対主は、そうなることを非常に危ぶんでおられるのです。
(結) ですから、私たちが聖霊の満たしを受けるためには、自分たちはゼロであることを悟ら
なければなりません。たとえ古い人が良いことをしたとしても、結局は罪人がやっていること
です。その現実は、「白く塗った墓」に過ぎません。良いことをしているように見せながら、
内側には邪悪な思いを持った自分がいるのです。この現実は変わりません。いくら努力しよう
としても、古い人からは何も出てこないのです。このことを悟った時、絶対主は、「そこから
始めなさい。わたしが送ったイエスに頼ってやって行くのです。」と言って下さるのです。
すなわち、「自分の中から何かを出そう」ではなく、「ゼロから始める」のです。どうあがいて
も、古い人は絶対主の国と繋がりません。だから、古い人に心を向けても何の意味もないのです。
それが分かったら、私たちは、新しい人に心を向けてやっていこうではありませんか。古い人の
意識から離れて、新しい人の叫びとして、「イエス様!助けて下さい。お願いです、やらせて
下さい。」と、その心に意識を向けて行きましょう。この意識の中で、一つでも二つでもやらせ
ていただくのです。新しい人であるクリスチャンの歩みは、ここにあります。どうか、ここに心
を向け、聖霊の満たしを受けようではありませんか。そして、使徒たちと同じ経験を味わわせて
いただく者となりましょう。
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