マタイの福音書17章14~21節
(起)「心を変えるのは自分である」ということについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、今日お読みしたところは、イエス様が、てんかんで苦しんでいる子供の病を癒す
という内容です。ところが、本来、人の中に入った悪霊は、なかなか出て行かないものです。
それはなぜかと申しますと、その人自身が、悪しき霊の働きを心で受け入れているからです。
その場合、こちらがいくら追い出そうとして命じたとしても、悪霊は出て行きません。本人が
「出したい」という心を持たなければ、その人の内にいる悪霊を追い出すことはできないのです。
今日お読みしたこの子は、悪霊に憑かれ、何度も何度も、火の中、水の中に倒れていました。
彼は、自分で自分の心を動かすことができない中にありました。だから、イエス様が一方的に父親
の願いを聞かれ、悪霊の追い出しをして下さったのであって、何でもかんでもイエス様が一方的に
やって下さると思ったら大間違いです。ここで覚えていただきたいことは、「主は、父親が、自分の
心をどのように働かせるかを見ておられた」ということです。そのことは、私たちに対しても
同じです。
例えば、最近ずっと「悔いし砕かれた心」について学んで来ていますが、その心を持ちたいと
願っても、なかなか心に入ってこない時、私たちは、「絶対主は何でもできるはずですから、私の
心を変えて下さい」と、自分の心を他人任せにしようとします。しかし、絶対主はそれをなさい
ません。私たちの心が変わっていくように、外側から語りかけて下さることはなされても、
私たちの心を強制的に変えるということはなさらないのです。
(転) では、それはどうしてでしょうか。その答えは、絶対主は、私たちをご自分のごとくに
創られたからです。(創世記1:27)。そこで、創世記6:3を見ると、「わたしの霊は、肉に
すぎない人の中にいつまでも留まらない。~」と言われました。この「わたしの霊」というのは、
絶対主の霊です。すなわち、自分で考え、自分で判断していく、自立した心を絶対主は持っておられ、
「その霊を私たちに与えて下さった」ということです。この心の部分には絶対主も強制的に変える
ことをされません。それをしたら、ロボットになります。ですから、手をつけられません。すべて
の人間は、「自分で決めて、自分の判断でやっていくのです。」それが、私たちに与えられている
心です。しかし、私たちは、その心を絶対主に従っていくために使うのではなく、逆に逆らうために
使ってきました。だから、私たちは、絶対主が人を創ったことを、後悔されるようなことばかり
してきたのです(創世記6:5~6)。そこでもし、絶対主が人間を創ったことを後悔されたのなら、
「人の心を強制的に変えてしまえばよかったのに」と考えることは、通用しません。心の自由がある
なら、その心をどのように遣っていったかという責任が私たちにあります。それは、すべて自分で
決めて、自分でやったことだからです。それを、自分で責任をとれないからと言って、「あなたが
私の心を変えて下さい」と言うのは、通りません。普段は自分の思い通りに心を動かし、絶対主に
逆らうことをやっているにもかかわらず、何か自分に問題が起こって行き詰まったら、「私たちは、
どうにもなりませんので、この心を変えて下さい」などと、どうして言えるでしょうか?
この身勝手な罪の責任は、自分が負わなければなりません。ところが、そんな私たちのどうする
ことも出来ない罪の責任の報いを、代わりに受けて下さった方が、イエス様です。
ですから、私たちはイエス様に対して、ただ「本当に申し訳ありませんでした。私は自分勝手
でした」と心を変え、ひれ伏して遜るべきです。その心を変えるのは、私たちです。
すると絶対主は、「自分は罪深い人間で、どうにもならない者です」と、本気で悔いている
人間に対して、「わたしは、その悔いし砕かれた心の故に、おまえを蔑まず、お前を助けよう」
と仰って下さるのです。ですから、私たちは少なくとも絶対主の前に「悔いし砕かれた心」を持ち、
遜った立場を取るべきです。その心を持って、心で悪かったと認めるなら、「自分の犯した過ちに
対して、怒られる事から自分を守ることはしないでしょう。むしろ遜って聞いていきます。」と
言えるようになります。その遜った心があれば、自分のどこが悪かったのかを悟ることができます。
悟ることができれば、自分の心を変える方向に向かいます。自分が心を変えたなら、そこに心の
平安が与えられるのです。
(結) ですから、私たちは自分の罪を棚上げせず、遜って心をどのように動かすかが、とても
大切な事なのです。自分の心を変えるのは自分であり、絶対主ではありません。私たちは、最終的
には白き御座の審判に出ます。(12:36)その時には、自分自身の心にあるものが言葉として
出てきます。「何で私が怒られなくちゃいけないの」と口に出した瞬間に、その人は自分の罪が
分かっていないということになります。その時、私たちはむしろ遜って、「私は罪人です。
だから私の中から良いものは何もありません。私はあなたの前に姿を表せるような者ではありません」
という気持ちを持っていて丁度です。罪人は、自分の罪の状態しか言い表すことができないからです。
私たちは、今こそこの心を悟るべきです。
|
|