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2014年8月31日    



 
悔いし砕かれた心に入る入口



ヨハネの福音書21:15〜23


(起)負けを認めることが、「悔いし砕かれた心に入る入口」であることについて学んで

いきたいと思います。


(承) さて、私たちの教会では、この「悔いし砕かれた心」について長い間学んできました。

しかし現実は、なかなかその中に入っていくことができないようです。いろいろな学びによって、

「自分の命は偶然によらず、絶対主による創造の命」ということが教えられ、また「自分たちは

原罪を持つ罪人だ」ということも教えられて来ましたから、絶対主の前に遜るのは当然だと

思います。しかし、私たちはそれを理解してきたのに、それでも、この悔いし砕かれた心の世界

に入ることだけができないでいるのは何故でしょうか。それは、今日お読みした、イエス様と

ペテロの会話を見ていくと分かってきます。イエス様はペテロに、「ヨハネの子シモンよ。

あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」と聞かれました。そしてペテロは「はい、

主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。ペテロはこの時、

イエス様のことを「知らない」と言ってしまった自分自身の罪については一切触れませんでした。

「たとえ死ぬことがあっても、あなたに従っていきます」と、豪語しておきながら、イエス様を

裏切ってしまったのですから、それは、彼にとってとても大きな敗北です。しかし、その

「敗北した。負けた」という現実を、彼は自分自身の口で言うことをしなかったのです。

イエス様は3回のチャンスを下さいましたが、3回とも、「自分が失敗をしたんだ。自分が

負けたんだ」と、口で認めることをしませんでした。それは、彼の内に「負けられない精神」

があったからではないでしょうか?


(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちもペテロと同じように、「負けられない精神」

を持っていないでしょうか。特に、長男・長女は生れながらに、「弟や妹に負けてはいけない」

「負けるところを見せてはいけない」「負けたというレッテルを貼られることは絶対にだめ」

というものが入ってしまっています。しかし、そのようにいつも自分のプライドに立ってメンツ

を保っていたら、私たちは本当の意味で「砕いてへりくだるという心を持つ」ことができなく

なってしまいます。むしろ、私たちに必要なのは、「いつでも負けられる。いつでも頭を下げら

れる」という心であり、それが悔いし砕かれた心の中に入る入口なのです。
私たちは罪人

ですから、失敗が一つもないなんてことは絶対にあり得ません。ですから、失敗したことについて

何か言われた時には、その瞬間に「その通りです。ごめんなさい」と謝っていく。それが負ける

心というものです。「負けても良いんだ」という気持ちを持てる人は、いつでも絶対主の前に頭

を下げることができ、自分自身の非を認めて砕くことができます。
しかし、その心を持てない

人は、御国を失うことになってしまうのです。絶対主の前に弁解することは、負けないという

であり、それは逆に自分の我を立て続けるということですから、たとえ「信じます」と言っても、

「わたしはあなたを知らない」と言われてしまいます。ですから、私たちは負けるということ

をすぐにできるようにしておかなければなりません。この地上では勝つことがすべてかもしれ

ませんが、霊の世界では違うのです。私たちにとって、負けることは屈辱ではありません。

私たちは元々不完全な者ですから、人間の弱さを皆持っています。それを認めるということの、

どこが悪いのでしょうか?
 悪いことなんか一つもありません。私たちは素直に負けを認めたら

良いのです。それは、自分自身の価値観を失うことでもなんでもありません。絶対主は逆に、

そのことを正直に認めた人間の方に価値がある
と見て下さるのです。


(結)
「砕かれた心」に入っていくための入口は、負ける心を受け入れることのできる心です。

「負けたら、終りだ。」というこだわりを手放して、この心を掴んでいきましょう。

逆に「負けられない精神」があると、いつも圧迫感が付きまといます。しかし、
だわりなく

負けていける心があれば、ちゃんと砕いて謝っていけますから、絶対主はその後に平安を与えて

下さいます。
それが私たちの本当の魂の幸いです。このことを味わっていきましょう。

患難時代に入ると、私たちはイエス様を信じているが故に、命が狙われるということも起こって

くると思います。
もしその時「負けられない精神」を持っていたら、私たちは嘘をついてでも、

自分を守ろうとするでしょう。しかし、絶対主の前に負ける心を受け入れることができれば、

私たちは命を捨て、殉教することができるのではないでしょうか。
どうか、この心を持って最後

まで信仰を全うしていきましょう。 
 
  



                                      

  
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